はじめに
私は浄土真宗の寺院の僧侶です。教員をしていましたが、60歳が近づくにつれて両立が難しくなり、定年一年前に退職しました。そのお陰で母の人生の最後の2年ほどを、在宅での介護と「みとり」という「特別な時間」として過ごすことができました。
私の母は、満96歳になった翌日、12月17日に往生しましたが、それまで比較的健康に恵まれ、大きな病気はしたことがありませんでした。それでも、93歳頃から次第に足腰が弱り、横になることも多くなりました。デイ・サービスを勧めましたが、「まだ早い」と首を縦に振りませんでした。「早くはないだろう」と思いましたが、体の状態に頭が追いつくには時間がかかるようです。今の私も同じですからわかります。
祖母も同じでした。最後の3年間、寺の一室で母の介護を受けながら往(い)きました。老衰でした。伯母も同様に自宅でなくなりました。だから、母もおそらく同じような経過を辿るだろうと、本人も私も予想していましたが、やはり、その通りでした。
在宅介護が可能かどうかは、住宅事情もそうですが家族や親戚に協力者がいるかが重要です。私の場合、妻がよく手伝ってくれたこと、姉たちが理解・協力してくれたこと、私が早期退職できたこと等条件が揃っていたことが幸いしました。重い認知症や身体介護の必要がなかったことも大きかったと思います。
望んでいても、条件が整わなければ在宅介護は不可能です。多くの方が病院や高齢者施設に介護や「みとり」を依存せざるを得ない現状の中で、私の経験は稀なことであり、多数派でないことは明らかです。それでも、年老いて介護を受け命終に向かう親と「特別な時間」を、どういう形であれ共有するのは同じだと思います。
「特別な時間」で私が経験したこと、感じたこと、考えたことを記すことで、これから同じ経験をされるかもしれない方の役に、少しでも立てればと思い、公にすることにしました。
「延命治療はいらない」
さて、その母ですが、さすがに九十六にもなると、身体の衰えが目立ち始めてきました。その前から「延命治療はいらない」と言い始めていました。この年齢になると友だちに次々と先立たれ、寂しかったようで、それが生への執着を弱めた一因だったかもしれません。長寿はめでたいことではありますが、長生きすればするほど独りぼっちになり、寂しさはいや増していくのです。人生百年時代などという、無責任なキャッチコピーが流行っていますが、そうなれば友だちどころか子どもに先立たれることも十分あり得えます。長寿にはそういう両面性があることを忘れてはならないと思います。
もう一つ、母は自分だけが長生きしてるという負い目を密かにもっていたかもしれません。というのは、母親は昭和15年から20年の5年間に、夫、2人の兄、そして、3歳の娘を次々になくしているからです。
昭和20年、終戦の年。夫と娘が同時に結核に罹りました。京都の病院に入院中の夫が危篤状態になったため、娘を妹(私の伯母)に託して夫の元へ走りました。しかし、その甲斐なく逝去。その直後、自宅から娘危篤の知らせに取って返すも、時遅く妹の腕の中で息を引き取ったのでした。母は玄関の上がり口で倒れ込んだそうです。
存命中、母はこのことについて、話をするだけでも苦しくなって話し通せないほどでした。
もうすぐ皆に会える。娘に会える
だから、「延命はしない」と決めていたようにも思えるのです。
延命「治療」と「措置」
「延命」を望まない現実的な理由もありました。それは夫(私の父)の最後の様子でした。2回目の脳梗塞で入院した夫を待っていたのは気道確保のための気管挿管でした。しかし、3週間後には心停止。いきなり医師看護師がやって来て十分な説明もないまま電気ショックによる心肺蘇生が施されました。通電の度に父親がベッドの上で宙に浮きました。役割を終えた心臓を無理矢理叩き起こしているようで、見るに耐えませんでした。
「延命」ということで、先ず浮かぶのはこの時の情景でした。これは「治療」ではなく「蘇生措置」でしたが、母親が延命治療を厭うのは、このイメージがあったことも一因だったと思います。私たちはあたかも自分が受けているかのような錯覚に陥り、それを「延命治療」という言葉に結びつけていたのでした。「延命治療」がそういうものをさすのではないとわかるのは、もうすこし後になってからのことでした。
延命治療を母が望まない理由を考えてみました。確かにいろいろあるでしょうが、本人が望んでも、それを最後に決断するのは、多分私です。そこでかかりつけ医にも伝えておこうということになり2人で病院を訪れました。そのことを話すと、意外にあっさり了解して下さいました。
こういう重要な判断を伴う相談は、家族や兄弟は当然ですが、第三者でも掛かり付け医に話しておくことが大切です。
点滴は延命治療
「延命治療」が、現実になってきたのは命終の4か月前の夏頃からでした。お盆すぎ、母親の食欲がガタンと落ちました。聞くと「苦いから」といいます。桃もいちじくも苦い、水まで苦い。ポッカレモンを垂らすと飲めることもあるとの看護師のアドバイス。やってみました。「飲める!」 しかし、長続きはしませんでした。
口腔内をきれいにしてみようということで、入れ歯の清掃をすることに。これは私の仕事になりました。最初抵抗感がありましたがすぐ慣れました。「ポリデントってこれか」。もうすぐ私も世話になるだろうと思いながら。
水も飲めないとなると心配になるのが脱水です。そこでかかりつけ医に点滴を頼みました。ところが、その返事にびっくり。
点滴は延命治療になりますが・・・
と真顔で問われ、脱水状態を「改善」したいだけでしたが、それが延命治療になるとは! 「治療」と先生は言われましたが、それは、我々家族の気持ちを慮ってそう言われたのであり、母親の状態からするとそれは延命「措置」なのでしょう。それにしても、「改善」のための治療と延命「措置」は、どこで分けるのでしょうか。定義があるかどうか知りませんが、おそらく、命終に向かって自然に進んでいる状態を逆行させることが延命「措置」ということなのだろうと思います。実際、そういう状態での点滴は苦痛を持続させるにすぎないこともあると、後で知りました。
ともかく、その時、母親がそういう選択を迫られる状態だという現実を突きつけられたのでした。
それでも、私は点滴をお願いしました。「改善」の見込みがないと思えなかったからです。身内の者が近親者の症状を客観的に判断できないことは、父の時に経験済みでしたが、この時もやはり同じでした。
結局、痩せ細った腕には針がうまく刺さらず、週に2回程度、200CC、多くても400CCするに止まりました。体はとっくに点滴を拒否していたのに、見るに見かねた私が耐えられなかったのです。
その内、数少ない点滴も、母は「もういい」と止めてしまいました。「延命治療」はいったい誰のためにするのか。その答は必ずしも明確ではない気がします。
不測の事態
九月中頃の早朝、母親の突然の叫び声で目が覚めました。天井を睨みながら
龍みたいものが襲ってくる!
と喚くのです。と思うと笑いだす。これには背筋がぞっとしました。
大丈夫。何もいないから
となだめても聞く耳もちません。後でわかりましたが、これは「せん妄」という一種の意識障害でした。原因はいろいろあり脱水もその一つ。このような不測の事態に出くわすと、どうしてよいかかわからず強い不安に襲われます。在宅介護や「みとり」をする場合、起こりうる事態について事前に医師に尋ねておくとよいと思いました。
認知機能の低下
九月末になると気温が下がったこともありますが、食欲が少し回復しました。これには医師も驚きました。しかし、認知機能の低下は進みました。2人の娘を思いだすことができませんでした。私のことも誰かわからない様子でした。
姉たちが来た時のことです。母親が、
いつも世話してくれるメガネかけた親切な男の人、あれ誰やったかいな
と姉に尋ねたそうです。
あれは教(のり)さん(私のこと)やんか
というと、母親は
そやった、そやった。何言うてるんやろ。
といつものように上品に笑ったとのこと。これを聞いて皆大笑いしました。親の認知症が進んで自分のことを忘れられると少し悲しくなります。しかし、目の前にいるのは紛れもなく我が母です。だったら、「今の母」との時間を大切にすればそれでよい、そう思ったら楽になりました。「メガネかけた親切な男の人」でよいかと。
これは最近聞いた話ですが、物忘れがひどく毎朝財布を探す母親に息子が一言。「さあ、お母さんの宝探し始まったぞ」。深刻な事態を深刻に受け止めると苦しくなったり、不安から怒りの感情が沸いてくることが少なからずあります。それを避けるためにも、こういうジョークは大切ですね。皆が救われます。
入院と認知機能
認知機能の低下ということで、話の流れからそれますが、ここで少し書いておこうと思います。春先のことでしたが、一度救急で入院したことがありました。その時、症状がそれほどひどくなかったので、そのまま帰宅するか数日でも入院するか迷ったことがありました。救急医が最初に心配したのは、認知機能の低下が進むことでした。環境が変わると、高齢者でなくても一気に症状が現れることがあるといます。迷いましたが、大事を取って入院することにしました。
しかし、救急医の予想が的中。
くにちゃん(姪のこと)が、看護師しているわ。なんでやろ
という言葉にびっくり。くにちゃんというのは、母の姪のことです。もちろん、それはありえません。
また、とっくの昔になくなった自分の兄を
宋仁(そうにん)さん、どうしてはるやろ
と真顔で尋ねることも度々でした。宋仁というのは、二十代でなく母の次兄です。因みに、長兄も三十代で同じ病で亡くなりました。
不安材料を取り除く
このような記憶の混濁はさほど困らないのですが、見当識の低下は少々難儀しました。ここがどこかわからない、入院中であることもわからない。しかし、家でないことはわかるので、早く帰りたいと看護師にせまり、だめとわかると怒りだして点滴のチューブを抜き、ベッドから出ようとするのです。看護師が困り果てて電話してこられました。「誰か付き添ってください」と。「24時間看護」ではないのかと思いましたが、それはあくまで治療の必要な患者を「看護」する制度であり、「介護」的な部分は含まれていないからでしょう。それはそうかもしれないと納得せざるを得ませんでした。
とはいえ、私も妻も、夜に泊まることはできても、昼にずっと付き添うわけにはいきません。姉たちも協力してくれましたが、それぞれ生活があります。母と話してみると、どうやら、自分がほっとかれることへの不安が大きいことがわかりました。そこで考えました。誰も横に付けない時は、
○○時になったら来るからね
と約束し、忘れても大丈夫なように、腕に布を巻いて、そこに、次に私が来る時間と私の名前を書き
いつもこれを見るのやで
と言ったところ、少し落ち着いたようでした。記憶するのが難しければ、目で見てわかるようにすればよい。これは自閉症スペクトラムと言われる障害をもつ人への支援方法から学びました。町の至る所にイラストやわかりよい文字で表示された案内があります。トイレの男女表示がその典型です。この支援方法を援用しました。
変わらない日常
数日で退院。帰宅すると認知機能が入院前の状態までは戻りました。それで思ったのですが、場所・空間は、精神の安定を支える土台なのだと。入院に限らず、高齢になってから転居やリフォームをすると、その変化に認知がすぐには追いつかないようです。それが不安材料ともなって認知症が進みやすくなる気がします。
私たちは、住まいはもとより、町の風景や近所の人間関係も含めた「変わらない日常」によって精神の安定を得られているのではないでしょうか。仕事でも旅行でも、帰った時に「変わらぬ日常」があるから安心して出かけられるのです。とりわけ「見知った人」の存在が大きいと思います。仮に家族であることを忘れても、「見知った人」が変わらず側にいてくれる、これが大事だと思います。「メガネをかけた親切な男の人」でよいというのはそういうことです。
高齢者施設でも、そういう配慮をしてくれると有り難いですね。
若い時は変化に柔軟に対応できるのでしょうが、高齢になるとそれがだんだん難しくなっていくようです。
老衰もしんどい
さて、10月の中旬、命終の二ヶ月ほど前。この頃になると「しんどい」を連発するようになりました。どこがというわけではなく、体全体がいいようもなくしんどいといいます。老衰とか自然死というとローソクが消えるような穏やかなイメージがありますが、なかなかそうはいかないのです。仏教では「生老病死」を四苦といいますが、この場合の「死苦」というのは、死に向かって生きることの実存的精神的な苦であるとともに、身体的な苦でもあると、改めて思いました。寄り添うというのは、その両方の苦に耳を傾けることなのでしょうね。
しかし、何度も同じ繰り言を聞くのは正直面倒くさいことです。「皆そう」とか「年のせい」と言ってしまいます。私は教員をしながらカウンセリングもしてきましたが、そこで痛感したのは「聞く」ことの大切さです。それでも、相手が親となると聞けないのです。その理由の詮索はさて置き、カウンセリングで学んだことがもう一つあります。それは、精神的な苦も身体的な苦でさえも、聞いてもらうだけで軽減するということです。小さい頃、母親に「いたいねいたいね」と受け止めてもらうだけで痛みが薄らいだことってありますよね。あれです。
同じ繰り言を聞くのは、介護をする側にとっては苦痛でさえあります。でも、少し時間を割いて「聞く」ことによって、本人の苦が和らぎ、繰り言の回数が減るように思います。
嚥下障害
嚥下障害も起こってきました。飲み物はとろみを付けないとむせます。私もこの年になってわかりましたが、飲み込むタイミングと喉頭蓋(気管へ通じるドア)が閉じるタイミングが合わないのです。先日、うどんをツルッと喉に流し込もうとしたらむせ返ってしまいました。喉頭蓋が閉じる前にうどんの先端が気管に入りかけたからでしょう。とろみを付けるのは、口から喉へ入る速度を緩めるためだったですね。 何事も経験しないとわからないものです。
プライド
それでも用はトイレで足し続けました。妻や私の支えを借りてですが。体力がないので、行って戻るだけでえづくほど疲れ果てました。オムツをしたのは臨終の二週間前、12月に入ってからでした。大正ひと桁生まれの女性としてのプライドは、認知能力の高低に左右されないのかと驚きました。
母の母親、私の祖母は明治生まれのたいへん躾に厳しい人でした。カビが生えたご飯でも「洗って食べなさい」というほどでした。私には優しかったので、この話題になるといつも姉から「あんたは男の子やったから」と妬まれるのですが。娘たちは、女らしさをたたき込まれたのでした。
そんな親に育てられた母親でしたから、ポータブル・トイレを部屋に用意した時も、
そんな楽なことしてたらあかん
と一蹴しました。それでも使用を勧めると渋々同意しましたが、
使ったら自分で始末するから
というではありませんか。それなら最初からトイレで用を足した方が早いというと、ブツブツ言いながら結局1、2回使っただけで結局返却しました。
「ホー、よろしゅうに」
12月に入ると、血圧、血流、整腸、睡眠導入などの薬を全部止めました。主治医の判断で自然に任そうということになったからです。黙っていることが多くなり、精神活動がさらに低下している感じがしました。
臨終4日前。3日早かったのですが、家族と姉たちで母親の96歳の誕生日を祝いました。表情も硬く、誰かもほとんどわかっていなかったようです。それでも私が
今日は横に寝るからね
というと、
ホー、よろしゅうに
ととぼけた言い方をしたので皆で笑いました。これが言葉らしい最後の言葉でした。
ハンカチ
命終3日前。妻がオムツを替えようとすると、パジャマを手で押さえて拒否の意思表示。それで、
恥ずかしいのか。じゃあ、顔にハンカチ掛けて見えないようにしよ うか
といって、顔を覆うと素直に任せてくれました。先ほども触れましたが、精神活動が低下しても、「恥ずかしい」という感情はあるのです。どんな状態になっていても、人間としての尊厳を侵さないケアをしなければならないとその時思いました。
命終2日前。無表情となり、何を見つめているのかと思いましたが、顔の向きに視線を向けているだけでした。
最後の笑い
命終前日。この日が96歳の誕生日でした。手が冷たくなっていきました。末梢まで血液が行き渡らないからでしょう。気休めとわかっていましたが手袋をはめました。
吸い口で水を飲ませて、
赤ちゃんみたいな
昔、してもらったこと、今してあげてるみたいや
というと表情が緩み、小さく笑った気がしました。
手を握って
そして、12月17日朝。脈をとると30ほどしかありません。呼んでも揺すっても反応がありません。すぐにかかりつけ医に電話しました。
すぐに行くがそれまで、そのまま手を握っててあげて下さい
とのこと。この時、一瞬、救急車を呼ぶか迷いましたが、思いとどまりました。「それは違うだろう」と。
脈拍の間隔が次第に開いていき次の拍がなかなかきません。「ああ、往(い)ったのかなあ」と思った時、かかりつけ医が来て下さりました。そして、脈をとり臨終を告げられました。しかし、母親の死を実感したのはその時ではありません。私が実感したのは母親の体が冷たくなってしまった時です。その時初めて、母の死を納得しました。96歳と一日の生涯でした。
かかりつけ医
命終の時、救急車を呼ぶか一瞬迷ったと先に書きました。そのことについて、もう少し付け加えておきます。
なぜ迷ったのかと考えると、おそらく、119番しなければ、助かる命を放置することになるのではないかと、その責任の重さに怯んだのだと思います。終焉に向かう自然の流れをためらいなく受け容れることは、そう容易いことではありませんでした。延命治療(措置)を断っていても、いざとなるとそうなのでした。
その不安とためらいを越えられた理由の第一はかかりつけ医の存在でした。医療的なケアや介護についての相談だけではなく、119番しないという判断の心理的かつ法的な支えは大きかったと思います。もし、家族の判断だけでの在宅死であれば、昔ならともかく、警察の取調を受けることは必至です。かかりつけ医があることでそういう心配をせずに命終を迎えられたことは大きかったです。
それでも、心のどこかで自分の判断が気になっていました。その整理がついたのは数年後のことでした。たまたま、在宅医療・看取りを進める活動をされている東近江地域医療連携ネットワーク「三方よし研究会」の医師の講演を聞きにいきました。その場で私は、母の場合の判断について質問しました。医師の答は「間違っていない。救急隊員が到着した際にすでに死亡していれば警察へ通報されることになる。だから、かかりつけ医をもつことが大事なのだ」と言われ、「『かかりつけ医を持とう』を今日のまとめにします」と言っていただき、胸のつかえがおりました。
とはいえ、休日など医師と連絡が取れないこともあります。そういう場合の対処方法を事前に医師とよく相談しておく方がよいと思います。私は医師から携帯の電話番号を教えてもらっていたので心強かったです。
周りの理解と同意も必要です。妻はもとよりですがきょうだい(私の場合は二人の姉)の理解は必須です。彼女たちが延命を望んでいると、私は姉から批難されるどころでは済まないかもしれません。幸いにして姉たちは同意してくれていました。
私の判断が母の判断
右のような条件が揃っても、救急車を呼ぶか呼ばないかを決める私の心理的な負担は重いものがあります。適切かどうか正しいかどうかということもあれば、母が望んでいるかどうかもあります。しかし、そのどれについても、おそらく誰も正解は持っていないと思います。では、私はどう思おうとしたかといいますと
私の判断が母の判断
と思うことにしました。何の根拠もないのですが、敢えて言えば、乳幼児が病気の時、全ての判断は親がするのと同じだということです。その時にしてもらったであろうことを今度は私がするのです。吸い口で水を飲ませてあげたように。
それは肉親だからそう思えるのではないかと言われればそうかもしれません。しかし、なき妻の母親を自宅に引き取って介護し、最後を看取った友人がいます。彼には、私と同じことをいえると思います。要は、肉親かどうかより親身になって世話をしたかどうかではないでしょうか。私はそう思います。
「みとり」ということ
最後に、私が看取りのことを敢えてひらがなで「みとり」と書いた思いを述べることにします。
「はじめに」で書いたように、在宅介護と看取りはよほど条件が揃わないとできません。その面で私は恵まれていました。しかし、恵まれていたのはその結果もでした。人に憚ることなく、介護という名の下に母との「特別な時間」を共有できたからです。それともう一つ、これがより重要ですが、老いて命終していくありのままのすがたを私に見せて、みとらせてくれたことです。
通常、看取りは人がなくなる際、看病・介護して臨終の瞬間まで見守ることであり、見送る側の行為として語られます。それは間違いないことですが、母の看取りを通して感じたことは、看取りは、送る者が送られる者を一方的に見送るだけの出来事ではないということでした。医療や福祉の専門職の方々であっても、人ひとりが命終していく道程を、ただ世話するだけ、見送るだけでは済まないはずです。まして肉親であればです。大なり小なり「死を共に生きる」という経験を伴うのではないかと思うのです。
「死を共に生きる」というのは奇妙に聞こえるかもしれません。「死」は死であって生きることではないと。しかし、よく考えてみると、私たちは自分の死を直接には経験できません。経験した時にはすでに死んでいるわけですから。経験できるのは、死にゆくいのちを生きることだけです。
送る側はというと、深い喪失の予感に震えつつ、自らに死の事実を刻印しながら、その人と一緒に生きるのです。「死を共に生きる」というのはこういうことです。「みとり」は、このような内実をもった事態ではないかと思うのです。「看取り」と書かず、あえて「みとり」と平仮名で表記したのはそうした理由からです。
おわりに
私と母が過ごした「特別な時間」について書いてきましたが、書いていると母と共にいる感覚があるのは不思議なことです。「特別な時間」の延長線上にいるような。
在宅介護と看取りを前提に書いてきましたが、それらが不可能なことが多いのが現実です。その場合であっても、今述べてきたプロセスは同じだと思います。「死を共に生きる」という意識をもっていれば、看取りは「みとり」になり得ると私は思います。
そして「みとり」は、私たちの心に「死という碇(いかり)」を沈めて、日常生活に翻弄され、宗教的生き方を見失いがちな私たちを、そこにつなぎ止めてくれるのではないかと考えています。