今回は、浅田正作さんの「枯れる」という詩です。
枯れる
老いてわかること
それは
黙って枯れていく
草や木の
偉大さである 浅田正作
この詩で思い出すのが、22年生きた我が家の愛犬ミッチの死です。もとは野良犬で、ある雨の日ずぶ濡れになって迷い込んできました。そして、いつの間にか居着いてしまいました。野良気質が抜けないのかよく家を抜け出しました。呼び止めても振り返りもせず、とことこと歩き去りました。
そんなミッチでしたが、前住職の往生の時こんなことがありました。遺体を安置していた部屋の縁の下にどこからか潜り込んで、一晩クンクーンと泣き通してのです。これには私も母親も面目丸つぶれでした。
それからミッチも次第に衰えていきました。眼が白化し散歩中よく電柱や塀に頭をぶつけるようになりました。なくなる半年ほど前から寝たきり、といっても、横になるのではなく、後ろ足を前足の外側に突き出す、見るからに辛そうな姿勢で一日を過ごしていました。でも、苦痛や辛さを示す表情は見たことはありません。家人の死に泣いても、自分の死の不安や恐怖は感じなかったのでしょう。
ミッチは草や木に比べれば、人間寄りだと思いますが、従容として死を受け容れ、逝きました。人間には超えられない高みです。私たちはと言えば、若い時はこれもあれもできたと過去の自分に執着し、こんなはずではないと今の自分を受け容れられない。すぐ忘れる、膝が痛い、すぐむせる、なぜ私がこんな病気に等々と愚痴の種はつきません。70代になっても(私のことです)死は他人事で、死が迫れば迫ったでうろたえることでしょう。これが私たち凡夫(私自身)の正直な姿ではないでしょうか。
仏教は、このように黙って枯れていけない私たちのために説かれたと言ってよいでしょう。とりわけ浄土門の教えでは、死は、仏になれる世界へ生まれる機縁であると意味づけられました。死の意味の大転換です。その浄土をめぐっては、あるとかないとかかまびすしいことですが、要は、黙って枯れていけない私たちのために説かれているということです。しかも、それは、私たちとは比較にならないほど自己の凡夫性に深く苦しみ、救いを釈尊の教えに求めた求道者によって深められ伝えられたことは間違いありません。
その結論が、ただ念仏して浄土に生まれる、このこと一つです。この教えを信頼するかしないか、それはあなた次第です。どうしますか。