はじめに
「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」が御門主(浄土真宗本願寺派)のご消息として発布されました。しかし、宗門内外から意見や批判が相次いでいる現状です。私が住職をしている寺のご門徒からも、これまで聞いてきた浄土真宗の教えとは違うのではないかという疑問も出ています。「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」(以下、『新領解文』)への種々の声に対して宗派として見解を示してほしいと直接本山に要望の手紙を出された方もおられます。
このような声や行動を知り、私自身も『新領解文』についての見解を文書にすることに致しました。教学的に不十分な点や思い違い等もあるかと思いますが、一宗門人としての私の思いを率直に述べさせて頂きました。また、ご門徒の皆さんにも読んで頂くことを前提に専門的な言葉はできるだけ控えました。
「私たちの意見」は、当寺の門徒総代の賛同を得て2023年6月1日付で連名で総局に提出し、ご回答をお願いしているところです。
このブログ(HP)をお読みの本願寺派の皆様には、ご賛同頂ければ幸いですが、そうでなくとも、これだけ種々の意見・批判が社会的にも広がった今、何らかの意見や感想を、賛否にかかわらず、ともに述べていくことが大事ではないかと考えます。
また、浄土真宗とまだそれほどご縁のないみなさまにも、『新領解文』とこの「ブログ」をお読み頂きまして、それぞれのお仲間(宗教上に限らず日常の)との間で話題にして頂き、仏教あるいは宗教について考えるきっかけにしていただければ幸いです。
新しい領解文(浄土真宗のみ教え)
まず、『新領解文』の本文を掲載します。文中の○数字は、その後の同番号のところに「意見」を述べています。
新しい領解文(浄土真宗のみ教え)
南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ①
「そのまま救う」②が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで③
救い取とられる 自然の浄土
仏恩報謝④の お念仏
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主⑤の
尊いお導きに よるものです
み教えを依りどころに生きる者となり
少しずつ 執われの心を 離れます⑥
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず⑦
穏やかな顔と 優しい言葉⑧
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます
令和五年一月十六日 龍谷門主 釋専如
「領解」ということ
まず、「領解」という言葉に触れておきます。「領解」とは、「教え」についての「自分の受け止め」であり「教え」そのものではないというのが一般的な理解です。ところが、標題下に「(浄土真宗のみ教え)」と書かれているので、「これは領解ではあるが『教え(教義)』でもある」ということなのでしょう。いったい、個人的な受け止めである「領解」と「教え」の関係はどう捉えればよいのでしょうか。
ひるがえって、今、私たちが頂いている浄土真宗の教えも、元を辿れば親鸞聖人による仏教の「受け止め=領解」ではなかったでしょうか。このことの意味するところは、その「領解」が普遍的(時代や社会を越えてあてはまること)であるかどうかということになるのではないでしょうか。普遍的であれば自ずから受け継がれていくのでしょう。そこが「新領解文」を考える際の、重要なポイントなると思います。
しかしながら、普遍性の有無を我々が判断することはできません。特定の見解や思想が普遍的であるかどうかは、おそらく、自由な批判・検証にさらされることによって自然に決まっていくのだと思います。これは歴史が証明していることではないでしょうか。従って、総局がいわれるような「次回の宗勢基本調査(2026年予定)において、寺院行事での100%唱和をめざす」といった性急な進め方は理にかなっているとは思えません。このことについては最後に触れさせて頂きます。
以下、内容に関してまず思うところを述べ、次いで、全体を通して感じるところを述べさせて頂くことにします。
文言に沿って
①「わたしの煩悩と仏の悟りが本来一つ」は、勧学寮の『解説』によると「(阿弥陀如来の)智慧の眼で眺めた時」と書かれています。そうだとしても、それは観想や瞑想によって到達できる高い境地であり、凡夫のための教えである浄土真宗とは一線を画すものではないでしょうか。
阿弥陀如来が一人も残さず必ず救うと誓願をおこされたとされるのは、我々が煩悩具足の凡夫だからです。誓願がおこされたことと凡夫の煩悩具足は不即不離です。しかし、それは「煩悩とさとりが一つ」ということではありません。
また、「わたしの煩悩と・・・」と、「私の」が付けられ、それが「仏のさとりと本来一つ」といわれると、教えを求める歩みが止まってしまう気がします。あるいは、「私はすでにさとっている」といった傲慢を生むかもしれません。
いずれにしても、浄土真宗にはそぐはない領解ではないでしょうか。
②「そのまま」とは、「煩悩を断たなくてもよい」ということではなく、私たちが煩悩を断とうにも断てない「煩悩具足」の存在であるからこそ「救われる」対象なのだという、阿弥陀如来による逆説的な救いの原理を意味する言葉だと思います。「煩悩具足」と「救い」は不即不離ではあるけれども、「阿弥陀如来→私」という方向性をもった救いを意味しているのが「そのまま」という言葉です。
ところで、「煩悩具足」という言葉はポピュラーになりすぎて、身近な煩悩の例話を聞くと「確かに自分にもある」とわかった気がします。しかし一方で、最近の重大事件の報道を見ていても思うのですが、煩悩の根はもっと深く、私たちにはその深さすらわからないのではないかと思います。「わがこころのよくてころさぬにはあらず」(『歎異鈔』)とはそういうことをいわれている気がします。つまり、「煩悩具足」は私たちの認識を越えた深い闇をも含んでいて、「そのまま」はその領域までも含めた言葉なのでしょう。
③「そのまま」が、右のような意味だとすると、 それを「このままで」と置き換えることはできないと思います。なぜなら、「このままで」は、自分は救われる存在であると自認している言葉だからです。「救い」は阿弥陀如来の領分ではなかったでしょうか。
「このまま」は、「阿弥陀如来→私」ではなく、「私→私」という自己肯定の図式になっているのではないでしょうか。
別の視点からもう一言加えると、私たちは自分に都合よく解釈をしますから、「『このまま』でよいのなら何をしても救われるのだ」と(「造悪無碍」)という誤った理解に陥りかねません。これは法然・親鸞が強く戒められた異議です。誤解を生みやすい表現は避けた方がよいと思います。
④「仏恩報謝」の「仏恩(仏さまのご恩)」とは 念仏往生の教えを明らかにして頂いたことをさします。「報謝」はその仏恩に報いて「感謝のおもい」から念仏するということです。これは本願寺派の通常の解釈です。
では、「感謝のおもい」が出てこない人はどうなるのでしょうか。そのおもいが出てくるまでその人は救われないということでしょうか。
私は、「感謝のおもい」が出てきても出てこなくても、喜べても喜べなくても「念仏すること」が「報恩」だと領解しています。これなら私にもできます。そうでないと、「おもい」が出る人は救われ、出ない人は救われないことになってしまいます。浄土真宗は、念仏する人を区別なく救う教えではなかったでしょうか。
⑤「歴代宗主」とは先代以前を指すと思われま すが、現御門主もいずれそのお一人になられるのですから、「尊いお導き」はご自分を指すことにもなります。しかも、親鸞聖人と歴代宗主が同格に扱われています。さすがにこれはもう少し控えめに書いた方がよいと思います。
また、我々に念仏を伝えて下さったのは、親・祖父母や先輩念仏者ではなかったでしょうか。法蔵菩薩が『仏説無量寿経』の第十七願で「我が名を称えてくれ。そうでなければ私はさとりをひらかない」と願われた十方無量の諸仏とは、それらの方々が称えられた「南無阿弥陀仏」の念仏(名号)」そのものであると私は頂いています。
⑥~⑧「執われの心を離れ」、「むさぼりいかりに流され」ないのなら、浄土真宗の教えは不要だと思います。そうなれないから浄土真宗がひらかれたのではなかったでしょうか。
とはいっても、このような努力が無意味とは思いません。「執われの心を離れます」「精一杯つとめます」というのは、「自ずからそうなる」という意味ではなく、「意志」を示していると思われるからです。その通りにはなれないとわかりつつ、浄土真宗の教えから導かれる、いわば、真宗的生活規範として提唱されているのであればあり得ないことはないかもしれません。
しかし、一歩間違うと浄土真宗が道徳教に陥ってしまう危険性をはらんでいます。浄土真宗は道徳が破綻するところから始まる宗教だと言っても過言ではないと私は思っていますから、この箇所に含まれる問題は、浄土真宗の生命線に関わると言っても言いすぎではありません。
道徳は不要などとというつもりはありませんが、宗教と道徳の違いは、言語化が不可能な領域を含んでいるかどうかでもあるかと思います。そのことについては「わかりやすさ」の問題とからめて次の節で述べたいと思います。
全体をとおして
(1)「わかりやすさ」という誘惑
ご門主が以前に出されたご親教や、今回の「ご消息」発布に際しての前文に「わかりやすさ」と「正しさ」という言葉がたびたび登場します。これらは魅力的な言葉ですが、注意の必要な言葉でもあると思います。まず、「わかりやすさ」ということから考えてみます。
『阿弥陀経』の中に「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉が出てきます。これは、仏のこの上ないさとりを意味する言葉なのですが、原語のサンスクリット語「アヌッタラ・サッミャック・サンボーディ」の音写語です。敢えて、中国の言葉に訳さなかったのです。後代の学僧が「無上正真道」などの訳語を当てていますが、『阿弥陀経』の漢訳者はそれをしなかったのです。どうしてでしょうか。
その理由は、仏教の「さとり」という概念が、中国にはなかったために、中国の言葉に訳してしまうと、誤解を受けたり、中国的な理解になってしまうからです。だから、あえて漢訳しなかったのです。
仏教のわかりにくさの理由の一つはここにあります。これは単に翻訳の問題ではなく、言葉では容易には説明しきれない「さとり」や「真実」が重要な核心部分となっているのが仏教だからです。
でも、私たちはやはり「わかりたい」し「わかりやすさ」に誘惑されます。それは必ずしも間違ってはいないのですが、「さとり」や「真実」を歪めてしまうことも知っていなければなりません。
「歪めてしまう」といいましたが、先に述べた「道徳化」もそうですが、言語化すること自体が歪めることでもあるのです。その点からすると、今回の『新領解文』はその誘惑の罠にはまってしまった感もないとはいえません。
・真実と繋がる言葉と伝道
「念仏の声を子や孫へ」という本願寺派のスローガンがかつてありました。「諸仏が我が名を称えるようにならなければさとりはひらかない」と誓われた法蔵菩薩の本願と重なって聞こえるのは私だけでしょうか。私は、これまでずっと「なぜ念仏か」ということを悩み続け、聞き続けてきた一僧侶です。ですから、今でも、このスローガンを、寺からの封筒に印刷しています。
我田引水とわかって上でいいますが、仏教の言葉、真宗の言葉は、それだけ人を惹きつける力、真実に繋がる力をもっていると思うのです。
「念仏」以外にも「本願」「浄土」「他力」「阿弥陀仏」等々。こういう真実に繋がる言葉について、伝道者自身も苦悩格闘しながら、自分の領解を語っていくことが伝道ということではないかと私は考えています。
今、「新領解文」が「正しい教え」としてご門主の名の下に示され、同調が求められています。そこに伝道者の苦悩も格闘も必要ではなく、むしろ、そのような主観は排除して進めていくことが求められているように感じます。
本来の伝道とはどうあるべきなのか。考えさせられます。
・「伝える」と「伝わる」
浄土真宗の教えが「正しく伝わる」ことは大事なことですが、それは、誰かが「正しさ」を決めて、それに従うことを求めることではないと思います。正しさは「伝わる」ものであって、誤解を怖れず言うと、「伝える」ものではない、少なくとも、宗教的な真実とはそういうものだと私は思います。これは先に述べた普遍性の問題と繋がります。伝道者が真実と向き合っているその生身の姿によってこそ「伝わる」のではないでしょうか。
総局は「伝える伝道から伝わる伝道」を提唱されていますが、拝読・唱和を強く求めることは、「伝える伝道」そのものではないでしょうか。その意識が強くなり過ぎると、「伝える」ことが自己目的化してしまい、その方法や手段だけが関心事となりかねません。そして、それが対立と排除を生む、まさに今そういう状況に陥りかけている気がします。
・正しさの担保
「新領解文」は、「ご門主のご消息」によって「正しさ」を担保して推し進められているようにみえます。「正しさ」は、どのようにして担保されるべきなのでしょうか。
そのことに関連して「仏典結集」を思い出しました。仏弟子阿難が記憶していた釈尊の言葉を長老たちの前で語り、仏の教えに相応していると皆が認めれば仏の教えと認定されたのでした。これが「正しさ」を担保する一つの方法です。
今回の『新領解文』ではこれに匹敵するとは言いませんが、制定過程において十分な議論がなされたのでしょうか。結果的にですが、勧学寮や司教方を始め、これほど多くの方々が疑義を呈しているということは、そういうプロセスを経ていないから起こっているのではないでしょうか。つまり、「正しさ」が正しく担保されていなかったということになります。やはり、ここで一度立ち止まって再考することが必要ではないでしょうか。
国の政治であれば、権力に対するチェック機能が制度的にも社会の中にも備わっています。マスメディアや世論、SNSを始めインターネットもそのような社会的役割を担っています。ところが、宗教教団の場合は、そういう機能が制度的にも社会的にも弱いように思います。それを思うと、今これだけ異論が噴出していることは、宗門の健全性を示しているともいえますが、同時に、宗門の責任ある方々がそれに応じるかどうかが問われているとも言えます。
『蓮如上人御一代記聞書』に、上人の次のようなエピソードが載っています。
順誓申されしと[云々]。常に はわがまへにてはいはずして、後言いふとて腹立するこ
となり。れはさやうには存ぜず候ふ。わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわが
わろきことを申されよ。聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。
〈現代語訳〉
順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいうといって腹を立てる
ものがある。だが、私はそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、私のいな
いところでもよいから、私の悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪
いところを直したいのである」といわれました。
『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳) 本願寺
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