2023年4月20日木曜日

親鸞聖人の「立教開宗」と私たち~二つの立教開宗~

親鸞聖人の「立教開宗」と私たち~二つの立教開宗~

 親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年慶讃法要に向けて、ご門徒向けの寺報「はらから」に思うところをを書きました。それに、標題を付けて私のブログ第1号として投稿することにしました。最後の方で、いわゆる「新領解文」についても私なりの思いを書きました。お読み頂ければ幸いです。                        石川教夫

■御誕生850年

 親鸞聖人は、承安三年(1173)4月1日、京都市伏見区日野でお生まれになりました。現在では新暦に直して5月21日を御誕生の日と定めています。

 西本願寺では、明治七年(1874)ー御誕生から700年ーにその日を降誕会(ごうたんえ)と名づけ、それから毎年5月21日に法要を行っています。また、50年ごとの節目に慶讃法要として大規模な法要を行っています。今年で4回目になりますが、御誕生からすると850年となります。

■「立教開宗」とは

 「立教開宗」というのは、一般的には独自の教えを立てることで(立教)、その教えに基づいて一宗を開くこと(独立)をいいます。ただし、法然聖人や親鸞聖人の場合は、一宗の独立という意味で浄土宗(浄土真宗)をたてられたわけではありません。そのことについては後で詳しく触れます。それはともかく、真宗各派では、元仁元年(1224)を立教開宗の年と定めています。その年から数えて今年は七九九年目となりますので、一年早めて御誕生の法要とともに、800年をお祝いして慶讃法要をお勤めするのです。

 立教開宗慶讃法要が初めて修行されたのは、大正12年(1923)で、元仁元年から数えて700年目のことでした。その後、昭和48(1973)年からは、御誕生と併修(同時修行)されるようになりました。

 ここで重要なことは、「立教開宗」が、明治・大正期の同行によって定められた「立教開宗」であったという点です。聖人自身がその時を以て宣言された「立教開宗」ではありません。「立教開宗」は、そもそも、このような曖昧さをもっているのです。そのことについて、以下もう少し詳しく説明した上で、「立教開宗」について思うところを最後に述べさせて頂くことにします。

 先ずはこの慶讃法要が、明治以降になって新たに始まったその背景から見ていくことにします。


 ■一向宗から真宗へ

 その背景として考えられるのは、明治5年(1872)に「真宗」を公称することが、明治政府によって正式に認められたことです。

 浄土真宗は、それまでは「一向宗」とよばれていました。これは俗称であり、蓮如上人以来「浄土真宗」が宗派の名称であると訴えてきましたが認められませんでした。

 江戸時代に、東西両本願寺は、幕府に一向宗という俗称を廃して、「浄土真宗」を用いることを求めましたが、浄土宗増上寺の反対もあり、結論が出されないまま明治維新を迎えました。

 そして明治5年。明治政府から「真宗」を公称することを認める通達が真宗各派に出されました。それ以後、本願寺派は「真宗本願寺派」という宗名になりました。現在の「浄土真宗本願寺派」という宗名は、戦後の昭和21年からです。


■「立教開宗」はいつ?

 「真宗」と名乗ることができるようになった時、改めて「真宗」の成立はいつか、何をもって成立とするか、つまり、「立教開宗はいつか」が、真宗各派で議論されることになったのでしょう。そして、聖人の主著であり、浄土真宗の教えが体系的に書かれている『教行信証』の成立した時点をもって「立教開宗」とすることとなったのでした。


■立教開宗と『教行信証』の撰述 

 ところが、『教行信証』、正式には『顕浄土真実教行証文類』には、書かれた日付がどこにもないのです。そのため、大正12年の法要に向けて議論され、それまでの通説に従って「元仁元年」(1224)をもって、*撰述の年とされたのでした。それに伴い「立教開宗」も同年と定められました。こうして大正12年(1923)に、立教開宗700年慶讃法要が修行されたのでした。

  ただ、「元仁元年」、聖人52歳の頃に『教行信証』を書き始められたことはたしかだとしても、晩年に至るまで推敲を重ねられましたので、『教行信証』の完成がいつかは、はっきりしていません。その意味では、「元仁元年」を『教行信証』撰述の年とすることには問題も残るのですが、「元仁元年」は、専修念仏者にとって重要な出来事が起こった年でもあり、その年を「立教開宗」の年と定めることには、その経緯はさておき、重い意味があると私は思っています。そのことについては後で述べるとして、次に「元仁元年」がどういう年であったか、考えてみることにします。

*撰述・・『教行信証』は、多くの経典や先師の書物から重要な文章を撰び、ご自身の解釈や主張を加えて構成されています。そのため、「撰述」という言葉が使われます

■「元仁元年」と末法

 まず、「元仁元年」という年号がどこに出てくるのかと言いますと、『教行信証』の「化身土文類」というかなり後半の部分に出てきます。まず、中国の道綽(どうしやく)という方の御文を引用されます。(現代語意訳)                                

  末法の時代になるとどれほど修行しても誰も悟れないだろう。末法の時代は、ただ浄土の教えだけが悟りに至ることができる道なのである。

続いて、ご自分の文章(これを「御自釈」といいます)があり、そこに出てきます。

 釈尊が入滅されたのは、紀元前九四九年とされている。その年から 我が元仁元年まで 2173年だから、明らかに末法の時代である。


「末法」とは、釈尊の教えは残るものの、修行もできず、当然悟りも開けない時代のことです。つまり、「元仁元年」は明らかに末法のさなかであり、浄土の教え以外に救われる道はないという文脈の中に出てくるのです。

 『教行信証』撰述の年をいつとみるかは、真宗史上の重要なテーマではありますが、ここではさておきまして、「元仁元年」を「末法」との関連で登場させた親鸞聖人の意図に焦点を当ててみたいと思います。

 親鸞聖人が「我が」まで付けて注目される「元仁元年」とはどういう年だったのでしょうか。

■専修念仏への弾圧

   「元仁元年」という年は、実は、延暦寺が法然門下の専修念仏者を非難する訴えを朝廷に起こし、それを受けて8月5日に朝廷から専修念仏停止の勅命が出された年なのです。その非難の理由の一つは専修念仏者の末法観でした。末法の時代は、自力の修行をいくら積んでも悟れないとされますから、もし、そうなら浄土の教え以外は存在意義を失ってしまいます。ですから、延暦寺をはじめとする旧仏教の諸派が反対するのは当然といえば当然です。かれらは、末法は末法でも、一万年までは修行もできるし悟りも開けると主張したのでした。

 こうして始まった専修念仏への弾圧は、三年後には「嘉禄の法難」と呼ばれる大弾圧に発展し、法然聖人の墓を暴き遺骨を賀茂川に流さんばかりの事態に至るのでした。

 その時、親鸞聖人52歳。京都から遠い関東の地、常陸国(茨城県)でどのような思いで、その出来事を聞いておられたでしょう。「元仁元年」に、敢えて「我が」まで付けられたのは、専修念仏者を弾圧する朝廷・延暦寺に対する怒りもさることながら、民衆に背を向けて、権力に癒着するどころか、権力そのものになってしまった延暦寺を代表とする南都北嶺の諸寺への嘆きがあったからではないでしょうか。その17年前、法然聖人をはじめご自身も僧籍を剥奪され越後に流罪となった承(じよう)元(げん)の法難(1207)のことも脳裏に浮かんでいたことでしょう。

 聖人が「我が」まで付けて「元仁元年」にこだわられたのは、延暦寺と朝廷の念仏停止の勅命に抗議し、末法の世では、浄土の教えのみが十方衆生(どんな人でも)が救われる道であることを強調されたかったのだと思います。

 その思いはまた、親鸞聖人に『教行信証』を書く動機と目的を一層明確にしたに違いありません。『教行信証』は、己を死の危険にさらすばかりか、念仏弾圧の好材料にされてもやむを得ないほどの書物ですが、それでも書かざるを得なかったのでしょう。

 つまり、元仁元年を「立教開宗」の年と近代の先輩念仏者が定めたのは、「念仏停止」という外部からの圧力に屈せず、「念仏往生」の道を貫く念仏者の生き方を内外に示したということではないでしょうか。

   *専修念仏・・・浄土往生のためにひたすら念仏のみを称えること。法然が提唱。

■もう一つの「立教開宗」

 ただ、注意しなければならないのは、元仁元年が親鸞聖人ご自身の

*回(え)心(しん)、つまり、浄土門へ帰依された時ではないということです。聖人の浄土門への帰依は、二十年以上遡る二十九歳の時でした。それは、『教行信証』の最後の所(後序)に明確に出てきます。


 愚(ぐ)禿(とく)釈の鸞、建仁辛(かのとの)酉の暦、*雑行を棄てて本願に帰す


これは、聖人が法然聖人のもとに100日間通われた結果、自力で悟りを開くことをめざす聖(しよう)道(どう)門(もん)の教えを棄てて浄土門に入られた回心を示す言葉です。「建(けん)仁(にん)辛(かのとの)酉(とり)の暦(れき)」とは建仁元年(1201)です。これは聖人が浄土真宗に帰したということでもありますが、この場合「浄土真宗」を仏教の一派という意味で使われているのではありません。「浄土真宗」というと、宗派の名前だと思っておられる方が多いと思います。現在はその意味もありますが、聖人にとっての「浄土真宗」は宗派名ではなく、教えそのものをさしていて、「念仏して浄土に往生することを根本(宗)とする」という意味で使われているのです。つまり、聖人にとっては浄土真宗はそのまま仏教そのものということなのです。そして、そのことが明確になったのが「建(けん)仁(にん)辛(かのとの)酉(とり)の暦(れき)」だったのです。とすると、この年を以て「立教開宗」の時とすることもまた妥当なのではないでしょうか。

 「立教開宗」を考えるとき、私たちは先に述べた元仁元年と建仁元年の両方を意識して考えねばならないと思います。では、そのような二重の意味をもつ「立教開宗」について私の思いを最後に述べることにします。

 *回(え)心(しん) 一般的には宗教的な意味での大きな心の転換。浄土教では、自力      の仏道から浄土門へ入ると大きな心の転換をさす。

  *雑(ぞう)行(ぎよう) 自力の要素が残っている修行

■建仁元年の立教開宗~浄土真宗と言葉と私

 まず、二つの立教開宗を区別するために、ここでは、それぞれ「元仁元年の立教開宗」「建仁元年の立教開宗」とすることにします。

 さて、「建仁元年の立教開宗」は「念仏して浄土に往生することを宗とする」という親鸞聖人の浄土門への帰依の宣言でした。ここで考えたいのは、そのこと自体ではなく浄土教で出てくるたくさんの抽象的な言葉の問題です。「南無阿弥陀仏「本願」「念仏」「浄土」「信心」どれ一つとってもそうです。この言葉の意味を知ろうと辞書を読んだり話を聞いてもすっきりしません。それらは、そもそも言葉では語り得ない真実に近づくための道しるべのようなものだからです。逆に言うと、これらの言葉は非常に深く広い意味を含んでいるということでもあります。この「言葉と真実」という問題は仏教の中でずっと重視されてきました。さらに、その通りにならない「自己」を加えて三つ巴の葛藤の中で求め続け悩み続けてきたのが念仏者の偽らざる姿ではないでしょうか。「なぜ念仏なのか」「信心をいただくとは」等々と。

 それは『歎異抄』(第九条)の聖人と唯円の会話にも示されています。


 念仏申し候らえども、勇躍歓喜のこころおろそかに候ふこと(それほどわいてきません)、また、 急ぎ浄土へまいりたきこころの候はぬは・・・


と親鸞聖人に問いかける唯円の言葉が、それを示しています。

 私が言いたいことは、この「葛藤」は、念仏者にとって必要な葛藤ではないかということです。答とおぼしき説明を覚え込んで自由に使えることが信仰の証でも何でもない。そうではなくて生涯問い続け、葛藤し続けていいし、そうならざるをえないのが念仏者ではないかと私は思います。それでも、なぜ、歩み続けることができるのか。聖人は続いてこう答えられます。


 よろこぶべきこころをおさえて、よろこばざるは煩悩の所為なり。 しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたるこ となれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとし られて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。


 〈現代語訳〉

  喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。 そうした私どもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられ て、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているの です。本願というのはそういう私どものためにおこされたのか、と 気づかされ、ますます頼もしく思われるのです。


 こういう言葉を聞くとほんとに安堵します。「葛藤しててもよいのだ」

と。それが煩悩具足ということだったのかと知れるのです。


元仁元年の立教開宗

 次に、明治大正期の先輩念仏者が定めた「元仁元年の立教開宗」には、「念仏停止」という外部からの圧力に屈しない決意が込められていると先に述べました。その前提として、近世以前において武家・朝廷の権門勢家におもねり、自らもその一端を担ってきたこと、それによって教えすらが歪めてきたこと、こういうことへの猛省もそこには含まれていたはずです。少なくとも私はそう思いたい。

 政治権力を代表とする外部の圧力とどう関わっていくかは、浄土真宗において真俗二諦の問題として昔からあった問題です。これは現代においても看過できないテーマですが、ここでは、目線を変えて社会の同調圧力について、「同調する側」の問題を考えておこうと思います。

 それはコロナ感染拡大の中で感じたことなのですが、「安全」「健康」という社会的に善とされる価値観に従って法要・聴聞の場を自ら制限しました。つまり、自ら「念仏停止」をしたということです。これは同調圧力に従ったのか、安全・健康を重視した主体的判断だったのか、果たしてどっちだったのでしょうか。宗派によっては、ウィルス撲滅のための法要や祈祷まで行われたと聞きます。我が宗派はもちろんそれはしていませんが、「(飢饉や悪疫で多くが亡くなったこと)は悲しいことだが、それは無常の道理である」(親鸞聖人御消息十六通)と述べられた親鸞聖人のように言い切れない私、無難な方を選んでいた私がいました。

 これは、自己防衛的な心理が働く、内なる同調圧力といえるかもしれません。「念仏停止」の圧力は外からとは限らないのです。ある意味では外部からの圧力よりも難敵といえるでしょう。よくよく考えたいものです。

 最後にもう一点述べます。今回の慶讃法要を機に、宗門では新しい領解文を作成し、全門徒が拝読・唱和することを提唱しています。ここではその内容には立ち入りませんが、「正しい」教えがご門主の名の下に示され、同調が求められています。浄土真宗の教えが「正しく伝わる」ことは大事なことですが、それは、誰かが「正しさ」を決めて、それに従うことを求めることではないと思います。正しさは「伝わる」ものであって、誤解を怖れず言うと、「伝える」ものではない、少なくとも、宗教的な真実とはそういうものだと私は思います。「伝える」意識が強くなり過ぎると、「伝える」ことが自己目的化してしまい、その方法や手段だけが関心事となりかねません。そして、その「正しさ」が対立と排除を生む、そういう危機感を今感じています。

 このことに関連して「仏典結集」を思い出しました。仏弟子阿難が記憶していた釈尊の言葉を長老たちの前で語り、仏の教えに相応していると皆が認めれば仏の教えと認定されたのでした。今回の「新領解文」は、これに匹敵するとまでは言いませんが、制定過程において十分なぎろんがつくされたのでしょうか。結果的にですが、勧学寮や司教方を始め、これほど多くの人が疑義を呈しているということは、そういうプロセスを経ていないから起こっているのではないでしょうか。そうだとすると、やはり、ここで一度立ち止まって再考することが必要ではないかと思います。

 国の政治であれば、権力に対するチェック機能が制度的にも社会の中にも備わっています。マスメディアや世論、SNSを始めインターネットもそのような社会的役割を担っています。ところが、宗教教団の場合は、そういう機能が制度的にも社会的にも弱いように思います。それを思うと、今これだけ異論が噴出していることは、宗門の健全性を示しているともいえますが、同時に、宗門の責任ある方々がそれに応じるかどうかが問われているとも言えます。ぜひ、宗門挙げて考えてみようではありませんか。

 最後に、蓮如上人の『御一代記聞書』から引用して終わろうと思います。


  順誓申されしと[云々]。常にはわがまへにてはいはずして、後言    いふとて腹立することなり。われはさやうには存ぜず候ふ。わがま   へにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ。  聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。

 

 〈口語訳〉

  順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいう といって腹を立てるものがある。だが、私はそうは思わない。面と 向かっていいにくいのであれば、私のいないところでもよいから、 私の悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪い ところを直したいのである」といわれました。

                      『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳)本願寺、より

 

                                       2023年4月20日 

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