2023年8月15日火曜日


 浄土真宗の「お盆」               

■盂蘭盆会(うらぼんえ)の語源

 「お盆」は正しくは孟蘭盆会といいます。その起源は『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』にあると言われています。一説によると「盂蘭」は「ウランバナ」というインドの言葉の音訳で、「逆さ吊りにされたような苦しみ」という意味です。「盆」は中国語で、食物を盛る容器をさします。つまり、逆さまに吊されるほどの苦しみから救われることを説くお経、それが『盂蘭盆経』とされています。

 ただ、浄土真宗の立場からは、どう受け止めればよいか困惑するところもあります。以下では、その辺りにも焦点を当てながら、私なりにお盆の受け止め方について述べさせて頂くことにします。

■『盂蘭盆経』のあらすじ

 まず、お経のあらすじをお話しましょう。

 お釈迦様の高弟に目連(もくれん)という人がいました。その目連がある時亡き母の行方が心配になって、修行で身に付けた神通力(じんずうりき)によって母親の居所を探しました。すると餓鬼道(がきどう)に堕ちているではないですか。目は落ち込み、体はがりがりです。急いでご飯を差し出しましたが、母親が口に入れようとした途端、突然火がついて食べられません。目連は、大きな声をあげて泣きました。

 目連は、お釈迦さまに一部始終を話し、母親を餓鬼道から救う道を尋ねました。お釈迦さまは、「目連よ、あなたの母は罪が非常に重いので、お前一人の力ではどうすることも出来ない。近々、高僧が集まる安居(あんご)という集まりがあるので、その方々に供養をしなさい。そうすれば母親は救われるであろう」と諭されました。そこで、目連がその通りにしたところ母親は救われました。

■お盆の解釈

 目連の高僧への供養によって母親が餓鬼道から救われるという筋立ての上に、先祖の霊を供養して救おうとする民間信仰が混じって

現在のお盆の習慣ができたようです。

 さて、このお経の言わんとするところはそれだけなのでしょうか。というのは、このお経の説くところをじっくり読んでみると矛盾するところがあるのです。その辺りに焦点を当てながら、私なりに自由に解釈をしてみようと思います。

■六道輪廻(ろくどうりんね)

 まずはポイントとなる言葉の説明から入ります。最初に六道輪廻。一般的な仏教では、一切の衆生は現世(げんぜ)の行為によって来世(らいせ)が決まるとされています。悟って仏にならない限り六つの迷いの世界(六道)をぐるぐると経巡る(輪廻)ことになります。これを六道輪廻といいます。

 六道とは地獄道、餓鬼道、畜生(ちくしよう)道、修羅(しゅら)道、人間、天(てん)道の六つです。目連の母親が堕ちた「餓鬼道」とは、どのような人が堕ちる世界なのでしょうか。その因は慳貪(けんどん)といわれます。「慳(けん)」は「けちで物惜しみをすること」、「貪(とん)」は「人並み以上に欲が強く(貪欲)、満足を知らないこと」です。この心に支配されると、自己の欲望満足にしか関心がなくなり他者は視野に入らなくなってしまいます。

■神通力(じんずうりき)とは

 「神」は「計り知れない」、「通」は「自在」ということで、通常は「超人的な能力」と訳されます。しかし、仏典の中では、「仏道を究めて得られる高度な智慧」という意味で使われているようです。平たく言えば、物事を仏教の原理によって見つめることができる力といってよいでしょう。

■目連の母親

 母親の人となりにも触れておきましょう。母親は目連を非常にかわいがって大切に育てたようです。彼が出家して他の修行僧たちと共に托鉢(たくはつ)にまわっていた時も、目連にだけたくさんの食べ物を布施したというそういう母親だったそうです。そのような母親が、なぜ、餓鬼道に堕ちねばならなかったのか、目連には信じられなかったことでしょう。

■母親の布施(ふせ)

 さて、ここからが本論です。まず最初の疑問。
母親はなぜ餓鬼道に堕(お)ちたのか。それを托鉢中の息子への「布施」から考えてみます。

 「布施」は「布施行」といい「欲を捨てる」ための修行です。布施は、布施をする者も、受ける者も、布施される物も清浄(しょうじよう)でなければなりません。これを三輪清浄(さんりんしょうじよう)といいます。

 布施がこのようなものであるなら、母親が目連に差し出した布施物は清浄ではなかったことになります。なぜなら、それは目連にだけ特別に手厚く盛られていたからです。我が子を誰よりも愛した母親ではありましたが、その故に、母親の布施行は、我が子の身を案じた肉親の情からの行為だったからです。

■避けがたい餓鬼道

 そのことからわかるのは、我が子しか目に入らず、我が子の幸せだけを願う親の姿です。そのような愛情によってこそ子どもはすくすく育ちます。これは間違いありません。しかし、反面で、それは盲目的であり、また、親自身の我欲の充足という通常意識されない側面ももっています。親の子どもへの愛情はそういう三面性を抜きがたくもっているのです。従って、目連の母親に限らず、世の親は、餓鬼道に堕ちる原因(これを業因(ごういん)といいます)を避けがたくもっているのです。これは、認め辛いことですが、私は、自分を振り返っても間違いないことだと思っています。

 餓鬼道に堕ちる業因は慳貪(けんどん)だと先にいいました。慳貪の対象は基本は物ですが、右で述べたようにその対象を精神的な領域まで広げると、餓鬼道に堕ちない親はないとさえいえることがわかってきます。

 これが母親が餓鬼道に堕ちた理由だったのではないでしょうか。

■矛盾する供養(くよう)

 それにしても、餓鬼道に堕ちた目連の驚きと悲しみは相当深かったに違いありませんが、そこは釈尊の高弟です。すぐさま、母親が餓鬼道に堕ちた理由に気づき、救うすべを釈尊に相談をしたのでしょう。その時の答は先のとおり、高僧たちに供養せよでした。

 この時、目連は首をかしげたのではないかと私は思います。なぜかというと、「供養」というのは、仏さまへの尊敬と感謝のために財物を供える無償の行為です。見返りを期待してする行為ではありません。母親を助けたい想いでするならば、それは見返りを期待することですから供養にはなりません。どうしてお釈迦様は日頃とは矛盾することを仰るのだろうと目連は疑問に思ったはずです。

 それでも、目連は疑いをはさまず、釈尊の言われるままに諸僧に供養したのでした。すると、母親は餓鬼道から救われたではないですか。とすると、やはり、私がした供養が役にたったと考えればよいのだろうかと、目連は再び自問したはずです。

■「ただ供養(くよう)」ということ

 さあ、皆さんならこの疑問にどう答えますか。

 清浄な心をもって行う供養が本物で、そうでない供養は偽物である。これが通常の考え方です。しかし、この考え方は、その時の目連にとっては不可能でした。母親を救いたい思いを打ち消せなかったからです。では、どのような心で供養すればよいのか、目連は迷ったはずです。清浄ではない心で供養しても助からない。けれど、供養しなければ助からない、この葛藤に苦しんだはずです。

 そして、こう考えたのではないかと。自分の心を変えられると思うことが思い上がりだったのではないか。大事なことは、お釈迦様の言葉を信頼して「ただ供養」することではないか。お釈迦様がそうすれば救われると仰るのだから、後はお任せしようと。

 目連にこのような変化があったとすれば、それは自力から他力への変化だったといえるかもしえません。己をたよりにするか、仏(阿弥陀様)をたよりにするかということです。

■念仏者を見捨てない阿弥陀さま

 お盆のお話をしてきました。しかし、浄土真宗ではお盆に限らず、あらゆる仏事は、阿弥陀様が、南無阿弥陀仏と念仏する人を見捨てず浄土に往生さそうとされるご縁に遇う場と頂いています。

親鸞聖人は、ご和讃の中でこう言われています。

 十方微塵世界の(無数の世界の)         

 念仏の衆生をみそなわし(ごらんになり) 

 摂取して捨てざれば(だれ一人見捨てない)

 阿弥陀と名づけたてまつる    (そのことをあらゆる人々に伝えるため、敢えて「阿弥陀」                                               と名前をお付けしたのです。)


このことを信頼して、まず、共に念仏することからはじめませんか。難しい話は後回しにして。


 


2023年6月28日水曜日

新しい領解文(浄土真宗のみ教え)  ~私たちの意見~

はじめに

 「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」が御門主(浄土真宗本願寺派)のご消息として発布されました。しかし、宗門内外から意見や批判が相次いでいる現状です。私が住職をしている寺のご門徒からも、これまで聞いてきた浄土真宗の教えとは違うのではないかという疑問も出ています。「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」(以下、『新領解文』)への種々の声に対して宗派として見解を示してほしいと直接本山に要望の手紙を出された方もおられます。

 このような声や行動を知り、私自身も『新領解文』についての見解を文書にすることに致しました。教学的に不十分な点や思い違い等もあるかと思いますが、一宗門人としての私の思いを率直に述べさせて頂きました。また、ご門徒の皆さんにも読んで頂くことを前提に専門的な言葉はできるだけ控えました。

 「私たちの意見」は、当寺の門徒総代の賛同を得て2023年6月1日付で連名で総局に提出し、ご回答をお願いしているところです。

 このブログ(HP)をお読みの本願寺派の皆様には、ご賛同頂ければ幸いですが、そうでなくとも、これだけ種々の意見・批判が社会的にも広がった今、何らかの意見や感想を、賛否にかかわらず、ともに述べていくことが大事ではないかと考えます。

 また、浄土真宗とまだそれほどご縁のないみなさまにも、『新領解文』とこの「ブログ」をお読み頂きまして、それぞれのお仲間(宗教上に限らず日常の)との間で話題にして頂き、仏教あるいは宗教について考えるきっかけにしていただければ幸いです。

新しい領解文(浄土真宗のみ教え)   

 まず、『新領解文』の本文を掲載します。文中の○数字は、その後の同番号のところに「意見」を述べています。



新しい領解文(浄土真宗のみ教え)      

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ①

「そのまま救う」②が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで③

救い取とられる 自然の浄土

仏恩報謝④の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主⑤の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者となり

少しずつ 執われの心を 離れます⑥

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず⑦

穏やかな顔と 優しい言葉⑧

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます

 令和五年一月十六日               龍谷門主 釋専如


「領解」ということ

 まず、「領解」という言葉に触れておきます。「領解」とは、「教え」についての「自分の受け止め」であり「教え」そのものではないというのが一般的な理解です。ところが、標題下に「(浄土真宗のみ教え)」と書かれているので、「これは領解ではあるが『教え(教義)』でもある」ということなのでしょう。いったい、個人的な受け止めである「領解」と「教え」の関係はどう捉えればよいのでしょうか。

 ひるがえって、今、私たちが頂いている浄土真宗の教えも、元を辿れば親鸞聖人による仏教の「受け止め=領解」ではなかったでしょうか。このことの意味するところは、その「領解」が普遍的(時代や社会を越えてあてはまること)であるかどうかということになるのではないでしょうか。普遍的であれば自ずから受け継がれていくのでしょう。そこが「新領解文」を考える際の、重要なポイントなると思います。

 しかしながら、普遍性の有無を我々が判断することはできません。特定の見解や思想が普遍的であるかどうかは、おそらく、自由な批判・検証にさらされることによって自然に決まっていくのだと思います。これは歴史が証明していることではないでしょうか。従って、総局がいわれるような「次回の宗勢基本調査(2026年予定)において、寺院行事での100%唱和をめざす」といった性急な進め方は理にかなっているとは思えません。このことについては最後に触れさせて頂きます。

 以下、内容に関してまず思うところを述べ、次いで、全体を通して感じるところを述べさせて頂くことにします。

文言に沿って

「わたしの煩悩と仏の悟りが本来一つ」は、勧学寮の『解説』によると「(阿弥陀如来の)智慧の眼で眺めた時」と書かれています。そうだとしても、それは観想や瞑想によって到達できる高い境地であり、凡夫のための教えである浄土真宗とは一線を画すものではないでしょうか。

 阿弥陀如来が一人も残さず必ず救うと誓願をおこされたとされるのは、我々が煩悩具足の凡夫だからです。誓願がおこされたことと凡夫の煩悩具足は不即不離です。しかし、それは「煩悩とさとりが一つ」ということではありません。

 また、「わたしの煩悩と・・・」と、「私の」が付けられ、それが「仏のさとりと本来一つ」といわれると、教えを求める歩みが止まってしまう気がします。あるいは、「私はすでにさとっている」といった傲慢を生むかもしれません。

 いずれにしても、浄土真宗にはそぐはない領解ではないでしょうか。

「そのまま」とは、「煩悩を断たなくてもよい」ということではなく、私たちが煩悩を断とうにも断てない「煩悩具足」の存在であるからこそ「救われる」対象なのだという、阿弥陀如来による逆説的な救いの原理を意味する言葉だと思います。「煩悩具足」と「救い」は不即不離ではあるけれども、「阿弥陀如来→私」という方向性をもった救いを意味しているのが「そのまま」という言葉です。

 ところで、「煩悩具足」という言葉はポピュラーになりすぎて、身近な煩悩の例話を聞くと「確かに自分にもある」とわかった気がします。しかし一方で、最近の重大事件の報道を見ていても思うのですが、煩悩の根はもっと深く、私たちにはその深さすらわからないのではないかと思います。「わがこころのよくてころさぬにはあらず」(『歎異鈔』)とはそういうことをいわれている気がします。つまり、「煩悩具足」は私たちの認識を越えた深い闇をも含んでいて、「そのまま」はその領域までも含めた言葉なのでしょう。


「そのまま」が、右のような意味だとすると、 それを「このままで」と置き換えることはできないと思います。なぜなら、「このままで」は、自分は救われる存在であると自認している言葉だからです。「救い」は阿弥陀如来の領分ではなかったでしょうか。

 「このまま」は、「阿弥陀如来→私」ではなく、「私→私」という自己肯定の図式になっているのではないでしょうか。

 別の視点からもう一言加えると、私たちは自分に都合よく解釈をしますから、「『このまま』でよいのなら何をしても救われるのだ」と(「造悪無碍」)という誤った理解に陥りかねません。これは法然・親鸞が強く戒められた異議です。誤解を生みやすい表現は避けた方がよいと思います。

「仏恩報謝」の「仏恩(仏さまのご恩)」とは 念仏往生の教えを明らかにして頂いたことをさします。「報謝」はその仏恩に報いて「感謝のおもい」から念仏するということです。これは本願寺派の通常の解釈です。

 では、「感謝のおもい」が出てこない人はどうなるのでしょうか。そのおもいが出てくるまでその人は救われないということでしょうか。

 私は、「感謝のおもい」が出てきても出てこなくても、喜べても喜べなくても「念仏すること」が「報恩」だと領解しています。これなら私にもできます。そうでないと、「おもい」が出る人は救われ、出ない人は救われないことになってしまいます。浄土真宗は、念仏する人を区別なく救う教えではなかったでしょうか。


「歴代宗主」とは先代以前を指すと思われま すが、現御門主もいずれそのお一人になられるのですから、「尊いお導き」はご自分を指すことにもなります。しかも、親鸞聖人と歴代宗主が同格に扱われています。さすがにこれはもう少し控えめに書いた方がよいと思います。

 また、我々に念仏を伝えて下さったのは、親・祖父母や先輩念仏者ではなかったでしょうか。法蔵菩薩が『仏説無量寿経』の第十七願で「我が名を称えてくれ。そうでなければ私はさとりをひらかない」と願われた十方無量の諸仏とは、それらの方々が称えられた「南無阿弥陀仏」の念仏(名号)」そのものであると私は頂いています。


⑥~⑧「執われの心を離れ」、「むさぼりいかりに流され」ないのなら、浄土真宗の教えは不要だと思います。そうなれないから浄土真宗がひらかれたのではなかったでしょうか。

 とはいっても、このような努力が無意味とは思いません。「執われの心を離れます」「精一杯つとめます」というのは、「自ずからそうなる」という意味ではなく、「意志」を示していると思われるからです。その通りにはなれないとわかりつつ、浄土真宗の教えから導かれる、いわば、真宗的生活規範として提唱されているのであればあり得ないことはないかもしれません。

 しかし、一歩間違うと浄土真宗が道徳教に陥ってしまう危険性をはらんでいます。浄土真宗は道徳が破綻するところから始まる宗教だと言っても過言ではないと私は思っていますから、この箇所に含まれる問題は、浄土真宗の生命線に関わると言っても言いすぎではありません。

 道徳は不要などとというつもりはありませんが、宗教と道徳の違いは、言語化が不可能な領域を含んでいるかどうかでもあるかと思います。そのことについては「わかりやすさ」の問題とからめて次の節で述べたいと思います。


全体をとおして         

(1)「わかりやすさ」という誘惑

   ご門主が以前に出されたご親教や、今回の「ご消息」発布に際しての前文に「わかりやすさ」と「正しさ」という言葉がたびたび登場します。これらは魅力的な言葉ですが、注意の必要な言葉でもあると思います。まず、「わかりやすさ」ということから考えてみます。

 『阿弥陀経』の中に「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉が出てきます。これは、仏のこの上ないさとりを意味する言葉なのですが、原語のサンスクリット語「アヌッタラ・サッミャック・サンボーディ」の音写語です。敢えて、中国の言葉に訳さなかったのです。後代の学僧が「無上正真道」などの訳語を当てていますが、『阿弥陀経』の漢訳者はそれをしなかったのです。どうしてでしょうか。

 その理由は、仏教の「さとり」という概念が、中国にはなかったために、中国の言葉に訳してしまうと、誤解を受けたり、中国的な理解になってしまうからです。だから、あえて漢訳しなかったのです。

 仏教のわかりにくさの理由の一つはここにあります。これは単に翻訳の問題ではなく、言葉では容易には説明しきれない「さとり」や「真実」が重要な核心部分となっているのが仏教だからです。

 でも、私たちはやはり「わかりたい」し「わかりやすさ」に誘惑されます。それは必ずしも間違ってはいないのですが、「さとり」や「真実」を歪めてしまうことも知っていなければなりません。

「歪めてしまう」といいましたが、先に述べた「道徳化」もそうですが、言語化すること自体が歪めることでもあるのです。その点からすると、今回の『新領解文』はその誘惑の罠にはまってしまった感もないとはいえません。



(2)「正しさ」という落とし穴 

・真実と繋がる言葉と伝道

 「念仏の声を子や孫へ」という本願寺派のスローガンがかつてありました。「諸仏が我が名を称えるようにならなければさとりはひらかない」と誓われた法蔵菩薩の本願と重なって聞こえるのは私だけでしょうか。私は、これまでずっと「なぜ念仏か」ということを悩み続け、聞き続けてきた一僧侶です。ですから、今でも、このスローガンを、寺からの封筒に印刷しています。

我田引水とわかって上でいいますが、仏教の言葉、真宗の言葉は、それだけ人を惹きつける力、真実に繋がる力をもっていると思うのです。 

「念仏」以外にも「本願」「浄土」「他力」「阿弥陀仏」等々。こういう真実に繋がる言葉について、伝道者自身も苦悩格闘しながら、自分の領解を語っていくことが伝道ということではないかと私は考えています。

 今、「新領解文」が「正しい教え」としてご門主の名の下に示され、同調が求められています。そこに伝道者の苦悩も格闘も必要ではなく、むしろ、そのような主観は排除して進めていくことが求められているように感じます。

 本来の伝道とはどうあるべきなのか。考えさせられます。


・「伝える」と「伝わる」

 浄土真宗の教えが「正しく伝わる」ことは大事なことですが、それは、誰かが「正しさ」を決めて、それに従うことを求めることではないと思います。正しさは「伝わる」ものであって、誤解を怖れず言うと、「伝える」ものではない、少なくとも、宗教的な真実とはそういうものだと私は思います。これは先に述べた普遍性の問題と繋がります。伝道者が真実と向き合っているその生身の姿によってこそ「伝わる」のではないでしょうか。

 総局は「伝える伝道から伝わる伝道」を提唱されていますが、拝読・唱和を強く求めることは、「伝える伝道」そのものではないでしょうか。その意識が強くなり過ぎると、「伝える」ことが自己目的化してしまい、その方法や手段だけが関心事となりかねません。そして、それが対立と排除を生む、まさに今そういう状況に陥りかけている気がします。


・正しさの担保

 「新領解文」は、「ご門主のご消息」によって「正しさ」を担保して推し進められているようにみえます。「正しさ」は、どのようにして担保されるべきなのでしょうか。

 そのことに関連して「仏典結集」を思い出しました。仏弟子阿難が記憶していた釈尊の言葉を長老たちの前で語り、仏の教えに相応していると皆が認めれば仏の教えと認定されたのでした。これが「正しさ」を担保する一つの方法です。

 今回の『新領解文』ではこれに匹敵するとは言いませんが、制定過程において十分な議論がなされたのでしょうか。結果的にですが、勧学寮や司教方を始め、これほど多くの方々が疑義を呈しているということは、そういうプロセスを経ていないから起こっているのではないでしょうか。つまり、「正しさ」が正しく担保されていなかったということになります。やはり、ここで一度立ち止まって再考することが必要ではないでしょうか。

 国の政治であれば、権力に対するチェック機能が制度的にも社会の中にも備わっています。マスメディアや世論、SNSを始めインターネットもそのような社会的役割を担っています。ところが、宗教教団の場合は、そういう機能が制度的にも社会的にも弱いように思います。それを思うと、今これだけ異論が噴出していることは、宗門の健全性を示しているともいえますが、同時に、宗門の責任ある方々がそれに応じるかどうかが問われているとも言えます。

 『蓮如上人御一代記聞書』に、上人の次のようなエピソードが載っています。


  順誓申されしと[云々]。常に  はわがまへにてはいはずして、後言いふとて腹立するこ   

 となり。れはさやうには存ぜず候ふ。わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわが

 わろきことを申されよ。聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。

 〈現代語訳〉

   順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいうといって腹を立てる 

 ものがある。だが、私はそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、私のいな

 いところでもよいから、私の悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪

 いところを直したいのである」といわれました。

     『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳)                本願寺


 これは、宗門人に限らず、責任ある立場の者が常に心しておかねばならないことではないでしょうか。

(3)「100%唱和」の危険性
 宗派は『新領解文』の拝読唱和をこれまでにないような決意で推進しているように見えます。それは「次回の宗勢基本調査(2026年予定)において、寺院行事での一〇〇%唱和をめざす」(『宗報』2023.4月号、79頁)という言葉に如実に表れています。しかしながら、「100%唱和」という言葉に潜む危険性に総局はお気づきでしょうか。
 「100%」は、例外を認めないということです。(2)「『正しさ』という落とし穴」で述べたこととも関連しますが、何かを絶対善として、その励行や信順を例外なく求めることは、反対派や少数派の排除、あるいは、人間の個性の否定にすら繋がりかねない、そういう危険性をはらんでいると私は感じています。
 とりわけ、就業上宗務員は上長宗務員(一般の上司)の命に従わねばなりませんから、人権規定が直接的に適用されることはないにしても「内心の自由(思想及び良心の自由)」が犯される事態になりかねません。「信教の自由」に含まれるとされる「信教の告白を強制されない自由」「信仰に反する行為を拒否する自由」にもかかわります。
 これがもし教団内部ではなく、たとえば、公的機関が思想信条に関わる国家理念や道徳を国民に100%の信順を求めたとしたら、人権に関わる大問題になっているでしょう。

結びにかえて
 私たち宗教者は憲法や法律上の人権規定の制約を直接は受けませんが、だからといって無関係というわけでは決してありません。むしろ、それらに代わるより高い宗教的倫理を自ら構築すべきではないかと思います。
  その際重要なことは、信仰はあくまでも個人の自由意志に基づいて行われる行為であり、浄土教は本質的に阿弥陀如来と私との関係において語られるものだということです。教団はそのような個の信仰を守るための存在であることが一義的に重要なのです。

 本願名号を聞信し念仏する人々の  同朋教団  「『浄土真宗本願寺派宗制』前文」

 これが我らの教団です。ここに立脚するとき、『新領解文』の内容、制定・推進方法等は、果たして、これに合致しているでしょうか。
 『新領解文』の原形は、すでに、「念仏者としての生き方」(2016年のご親教)、「私たちのちかい」(2018年ご親教)、「浄土真宗のみ教え」(2021年ご親教)で公表されています。その際、どうして声が上がらなかったのか不思議ですが、それはさておくとしても、これほどまでに種々の意見が湧出してくるということは、制定過程のどこか、あるいは、宗門の組織・機構に不具合があったのかもしれません。

 総局におかれましては、このような状況に鑑みられまして、種々の観点から再検討をして頂くとともに、当面においては、拝読唱和を積極的に推進することを控えて頂きますようお願い申し上げ「私たちの意見」のむすびとします。



















2023年4月20日木曜日

親鸞聖人の「立教開宗」と私たち~二つの立教開宗~

親鸞聖人の「立教開宗」と私たち~二つの立教開宗~

 親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年慶讃法要に向けて、ご門徒向けの寺報「はらから」に思うところをを書きました。それに、標題を付けて私のブログ第1号として投稿することにしました。最後の方で、いわゆる「新領解文」についても私なりの思いを書きました。お読み頂ければ幸いです。                        石川教夫

■御誕生850年

 親鸞聖人は、承安三年(1173)4月1日、京都市伏見区日野でお生まれになりました。現在では新暦に直して5月21日を御誕生の日と定めています。

 西本願寺では、明治七年(1874)ー御誕生から700年ーにその日を降誕会(ごうたんえ)と名づけ、それから毎年5月21日に法要を行っています。また、50年ごとの節目に慶讃法要として大規模な法要を行っています。今年で4回目になりますが、御誕生からすると850年となります。

■「立教開宗」とは

 「立教開宗」というのは、一般的には独自の教えを立てることで(立教)、その教えに基づいて一宗を開くこと(独立)をいいます。ただし、法然聖人や親鸞聖人の場合は、一宗の独立という意味で浄土宗(浄土真宗)をたてられたわけではありません。そのことについては後で詳しく触れます。それはともかく、真宗各派では、元仁元年(1224)を立教開宗の年と定めています。その年から数えて今年は七九九年目となりますので、一年早めて御誕生の法要とともに、800年をお祝いして慶讃法要をお勤めするのです。

 立教開宗慶讃法要が初めて修行されたのは、大正12年(1923)で、元仁元年から数えて700年目のことでした。その後、昭和48(1973)年からは、御誕生と併修(同時修行)されるようになりました。

 ここで重要なことは、「立教開宗」が、明治・大正期の同行によって定められた「立教開宗」であったという点です。聖人自身がその時を以て宣言された「立教開宗」ではありません。「立教開宗」は、そもそも、このような曖昧さをもっているのです。そのことについて、以下もう少し詳しく説明した上で、「立教開宗」について思うところを最後に述べさせて頂くことにします。

 先ずはこの慶讃法要が、明治以降になって新たに始まったその背景から見ていくことにします。


 ■一向宗から真宗へ

 その背景として考えられるのは、明治5年(1872)に「真宗」を公称することが、明治政府によって正式に認められたことです。

 浄土真宗は、それまでは「一向宗」とよばれていました。これは俗称であり、蓮如上人以来「浄土真宗」が宗派の名称であると訴えてきましたが認められませんでした。

 江戸時代に、東西両本願寺は、幕府に一向宗という俗称を廃して、「浄土真宗」を用いることを求めましたが、浄土宗増上寺の反対もあり、結論が出されないまま明治維新を迎えました。

 そして明治5年。明治政府から「真宗」を公称することを認める通達が真宗各派に出されました。それ以後、本願寺派は「真宗本願寺派」という宗名になりました。現在の「浄土真宗本願寺派」という宗名は、戦後の昭和21年からです。


■「立教開宗」はいつ?

 「真宗」と名乗ることができるようになった時、改めて「真宗」の成立はいつか、何をもって成立とするか、つまり、「立教開宗はいつか」が、真宗各派で議論されることになったのでしょう。そして、聖人の主著であり、浄土真宗の教えが体系的に書かれている『教行信証』の成立した時点をもって「立教開宗」とすることとなったのでした。


■立教開宗と『教行信証』の撰述 

 ところが、『教行信証』、正式には『顕浄土真実教行証文類』には、書かれた日付がどこにもないのです。そのため、大正12年の法要に向けて議論され、それまでの通説に従って「元仁元年」(1224)をもって、*撰述の年とされたのでした。それに伴い「立教開宗」も同年と定められました。こうして大正12年(1923)に、立教開宗700年慶讃法要が修行されたのでした。

  ただ、「元仁元年」、聖人52歳の頃に『教行信証』を書き始められたことはたしかだとしても、晩年に至るまで推敲を重ねられましたので、『教行信証』の完成がいつかは、はっきりしていません。その意味では、「元仁元年」を『教行信証』撰述の年とすることには問題も残るのですが、「元仁元年」は、専修念仏者にとって重要な出来事が起こった年でもあり、その年を「立教開宗」の年と定めることには、その経緯はさておき、重い意味があると私は思っています。そのことについては後で述べるとして、次に「元仁元年」がどういう年であったか、考えてみることにします。

*撰述・・『教行信証』は、多くの経典や先師の書物から重要な文章を撰び、ご自身の解釈や主張を加えて構成されています。そのため、「撰述」という言葉が使われます

■「元仁元年」と末法

 まず、「元仁元年」という年号がどこに出てくるのかと言いますと、『教行信証』の「化身土文類」というかなり後半の部分に出てきます。まず、中国の道綽(どうしやく)という方の御文を引用されます。(現代語意訳)                                

  末法の時代になるとどれほど修行しても誰も悟れないだろう。末法の時代は、ただ浄土の教えだけが悟りに至ることができる道なのである。

続いて、ご自分の文章(これを「御自釈」といいます)があり、そこに出てきます。

 釈尊が入滅されたのは、紀元前九四九年とされている。その年から 我が元仁元年まで 2173年だから、明らかに末法の時代である。


「末法」とは、釈尊の教えは残るものの、修行もできず、当然悟りも開けない時代のことです。つまり、「元仁元年」は明らかに末法のさなかであり、浄土の教え以外に救われる道はないという文脈の中に出てくるのです。

 『教行信証』撰述の年をいつとみるかは、真宗史上の重要なテーマではありますが、ここではさておきまして、「元仁元年」を「末法」との関連で登場させた親鸞聖人の意図に焦点を当ててみたいと思います。

 親鸞聖人が「我が」まで付けて注目される「元仁元年」とはどういう年だったのでしょうか。

■専修念仏への弾圧

   「元仁元年」という年は、実は、延暦寺が法然門下の専修念仏者を非難する訴えを朝廷に起こし、それを受けて8月5日に朝廷から専修念仏停止の勅命が出された年なのです。その非難の理由の一つは専修念仏者の末法観でした。末法の時代は、自力の修行をいくら積んでも悟れないとされますから、もし、そうなら浄土の教え以外は存在意義を失ってしまいます。ですから、延暦寺をはじめとする旧仏教の諸派が反対するのは当然といえば当然です。かれらは、末法は末法でも、一万年までは修行もできるし悟りも開けると主張したのでした。

 こうして始まった専修念仏への弾圧は、三年後には「嘉禄の法難」と呼ばれる大弾圧に発展し、法然聖人の墓を暴き遺骨を賀茂川に流さんばかりの事態に至るのでした。

 その時、親鸞聖人52歳。京都から遠い関東の地、常陸国(茨城県)でどのような思いで、その出来事を聞いておられたでしょう。「元仁元年」に、敢えて「我が」まで付けられたのは、専修念仏者を弾圧する朝廷・延暦寺に対する怒りもさることながら、民衆に背を向けて、権力に癒着するどころか、権力そのものになってしまった延暦寺を代表とする南都北嶺の諸寺への嘆きがあったからではないでしょうか。その17年前、法然聖人をはじめご自身も僧籍を剥奪され越後に流罪となった承(じよう)元(げん)の法難(1207)のことも脳裏に浮かんでいたことでしょう。

 聖人が「我が」まで付けて「元仁元年」にこだわられたのは、延暦寺と朝廷の念仏停止の勅命に抗議し、末法の世では、浄土の教えのみが十方衆生(どんな人でも)が救われる道であることを強調されたかったのだと思います。

 その思いはまた、親鸞聖人に『教行信証』を書く動機と目的を一層明確にしたに違いありません。『教行信証』は、己を死の危険にさらすばかりか、念仏弾圧の好材料にされてもやむを得ないほどの書物ですが、それでも書かざるを得なかったのでしょう。

 つまり、元仁元年を「立教開宗」の年と近代の先輩念仏者が定めたのは、「念仏停止」という外部からの圧力に屈せず、「念仏往生」の道を貫く念仏者の生き方を内外に示したということではないでしょうか。

   *専修念仏・・・浄土往生のためにひたすら念仏のみを称えること。法然が提唱。

■もう一つの「立教開宗」

 ただ、注意しなければならないのは、元仁元年が親鸞聖人ご自身の

*回(え)心(しん)、つまり、浄土門へ帰依された時ではないということです。聖人の浄土門への帰依は、二十年以上遡る二十九歳の時でした。それは、『教行信証』の最後の所(後序)に明確に出てきます。


 愚(ぐ)禿(とく)釈の鸞、建仁辛(かのとの)酉の暦、*雑行を棄てて本願に帰す


これは、聖人が法然聖人のもとに100日間通われた結果、自力で悟りを開くことをめざす聖(しよう)道(どう)門(もん)の教えを棄てて浄土門に入られた回心を示す言葉です。「建(けん)仁(にん)辛(かのとの)酉(とり)の暦(れき)」とは建仁元年(1201)です。これは聖人が浄土真宗に帰したということでもありますが、この場合「浄土真宗」を仏教の一派という意味で使われているのではありません。「浄土真宗」というと、宗派の名前だと思っておられる方が多いと思います。現在はその意味もありますが、聖人にとっての「浄土真宗」は宗派名ではなく、教えそのものをさしていて、「念仏して浄土に往生することを根本(宗)とする」という意味で使われているのです。つまり、聖人にとっては浄土真宗はそのまま仏教そのものということなのです。そして、そのことが明確になったのが「建(けん)仁(にん)辛(かのとの)酉(とり)の暦(れき)」だったのです。とすると、この年を以て「立教開宗」の時とすることもまた妥当なのではないでしょうか。

 「立教開宗」を考えるとき、私たちは先に述べた元仁元年と建仁元年の両方を意識して考えねばならないと思います。では、そのような二重の意味をもつ「立教開宗」について私の思いを最後に述べることにします。

 *回(え)心(しん) 一般的には宗教的な意味での大きな心の転換。浄土教では、自力      の仏道から浄土門へ入ると大きな心の転換をさす。

  *雑(ぞう)行(ぎよう) 自力の要素が残っている修行

■建仁元年の立教開宗~浄土真宗と言葉と私

 まず、二つの立教開宗を区別するために、ここでは、それぞれ「元仁元年の立教開宗」「建仁元年の立教開宗」とすることにします。

 さて、「建仁元年の立教開宗」は「念仏して浄土に往生することを宗とする」という親鸞聖人の浄土門への帰依の宣言でした。ここで考えたいのは、そのこと自体ではなく浄土教で出てくるたくさんの抽象的な言葉の問題です。「南無阿弥陀仏「本願」「念仏」「浄土」「信心」どれ一つとってもそうです。この言葉の意味を知ろうと辞書を読んだり話を聞いてもすっきりしません。それらは、そもそも言葉では語り得ない真実に近づくための道しるべのようなものだからです。逆に言うと、これらの言葉は非常に深く広い意味を含んでいるということでもあります。この「言葉と真実」という問題は仏教の中でずっと重視されてきました。さらに、その通りにならない「自己」を加えて三つ巴の葛藤の中で求め続け悩み続けてきたのが念仏者の偽らざる姿ではないでしょうか。「なぜ念仏なのか」「信心をいただくとは」等々と。

 それは『歎異抄』(第九条)の聖人と唯円の会話にも示されています。


 念仏申し候らえども、勇躍歓喜のこころおろそかに候ふこと(それほどわいてきません)、また、 急ぎ浄土へまいりたきこころの候はぬは・・・


と親鸞聖人に問いかける唯円の言葉が、それを示しています。

 私が言いたいことは、この「葛藤」は、念仏者にとって必要な葛藤ではないかということです。答とおぼしき説明を覚え込んで自由に使えることが信仰の証でも何でもない。そうではなくて生涯問い続け、葛藤し続けていいし、そうならざるをえないのが念仏者ではないかと私は思います。それでも、なぜ、歩み続けることができるのか。聖人は続いてこう答えられます。


 よろこぶべきこころをおさえて、よろこばざるは煩悩の所為なり。 しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたるこ となれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとし られて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。


 〈現代語訳〉

  喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。 そうした私どもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられ て、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているの です。本願というのはそういう私どものためにおこされたのか、と 気づかされ、ますます頼もしく思われるのです。


 こういう言葉を聞くとほんとに安堵します。「葛藤しててもよいのだ」

と。それが煩悩具足ということだったのかと知れるのです。


元仁元年の立教開宗

 次に、明治大正期の先輩念仏者が定めた「元仁元年の立教開宗」には、「念仏停止」という外部からの圧力に屈しない決意が込められていると先に述べました。その前提として、近世以前において武家・朝廷の権門勢家におもねり、自らもその一端を担ってきたこと、それによって教えすらが歪めてきたこと、こういうことへの猛省もそこには含まれていたはずです。少なくとも私はそう思いたい。

 政治権力を代表とする外部の圧力とどう関わっていくかは、浄土真宗において真俗二諦の問題として昔からあった問題です。これは現代においても看過できないテーマですが、ここでは、目線を変えて社会の同調圧力について、「同調する側」の問題を考えておこうと思います。

 それはコロナ感染拡大の中で感じたことなのですが、「安全」「健康」という社会的に善とされる価値観に従って法要・聴聞の場を自ら制限しました。つまり、自ら「念仏停止」をしたということです。これは同調圧力に従ったのか、安全・健康を重視した主体的判断だったのか、果たしてどっちだったのでしょうか。宗派によっては、ウィルス撲滅のための法要や祈祷まで行われたと聞きます。我が宗派はもちろんそれはしていませんが、「(飢饉や悪疫で多くが亡くなったこと)は悲しいことだが、それは無常の道理である」(親鸞聖人御消息十六通)と述べられた親鸞聖人のように言い切れない私、無難な方を選んでいた私がいました。

 これは、自己防衛的な心理が働く、内なる同調圧力といえるかもしれません。「念仏停止」の圧力は外からとは限らないのです。ある意味では外部からの圧力よりも難敵といえるでしょう。よくよく考えたいものです。

 最後にもう一点述べます。今回の慶讃法要を機に、宗門では新しい領解文を作成し、全門徒が拝読・唱和することを提唱しています。ここではその内容には立ち入りませんが、「正しい」教えがご門主の名の下に示され、同調が求められています。浄土真宗の教えが「正しく伝わる」ことは大事なことですが、それは、誰かが「正しさ」を決めて、それに従うことを求めることではないと思います。正しさは「伝わる」ものであって、誤解を怖れず言うと、「伝える」ものではない、少なくとも、宗教的な真実とはそういうものだと私は思います。「伝える」意識が強くなり過ぎると、「伝える」ことが自己目的化してしまい、その方法や手段だけが関心事となりかねません。そして、その「正しさ」が対立と排除を生む、そういう危機感を今感じています。

 このことに関連して「仏典結集」を思い出しました。仏弟子阿難が記憶していた釈尊の言葉を長老たちの前で語り、仏の教えに相応していると皆が認めれば仏の教えと認定されたのでした。今回の「新領解文」は、これに匹敵するとまでは言いませんが、制定過程において十分なぎろんがつくされたのでしょうか。結果的にですが、勧学寮や司教方を始め、これほど多くの人が疑義を呈しているということは、そういうプロセスを経ていないから起こっているのではないでしょうか。そうだとすると、やはり、ここで一度立ち止まって再考することが必要ではないかと思います。

 国の政治であれば、権力に対するチェック機能が制度的にも社会の中にも備わっています。マスメディアや世論、SNSを始めインターネットもそのような社会的役割を担っています。ところが、宗教教団の場合は、そういう機能が制度的にも社会的にも弱いように思います。それを思うと、今これだけ異論が噴出していることは、宗門の健全性を示しているともいえますが、同時に、宗門の責任ある方々がそれに応じるかどうかが問われているとも言えます。ぜひ、宗門挙げて考えてみようではありませんか。

 最後に、蓮如上人の『御一代記聞書』から引用して終わろうと思います。


  順誓申されしと[云々]。常にはわがまへにてはいはずして、後言    いふとて腹立することなり。われはさやうには存ぜず候ふ。わがま   へにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ。  聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。

 

 〈口語訳〉

  順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいう といって腹を立てるものがある。だが、私はそうは思わない。面と 向かっていいにくいのであれば、私のいないところでもよいから、 私の悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪い ところを直したいのである」といわれました。

                      『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳)本願寺、より

 

                                       2023年4月20日 

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