2024年2月20日火曜日

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての私たちの意見(改訂版)

  新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての私たちの意見(改訂版)

          浄土真宗本願寺派 永順寺住職 石川教夫

この文書は昨年6月1日付で住職の私と総代5名の連名で総局に送付したものを大幅に改訂したものです。実際には、送付した文書は総局に届いていませんでした。そのことは、本年1月17日に開催された滋賀教区での「新『領解文』学習会」での質問で判明しました。簡易書留で郵送しましたので、届いていることは間違いありません。内部で事務的に処理(廃棄?)されたようです。一般寺院からの文書は、このように扱われているということがわかりました。総代共々、非常に遺憾に感じております。
  
 そこで、2月8日付で再度総局に送付しました。それに当たって、文書を大幅に修正追加しましたので、ここに再度投稿した次第です。大筋は、昨年の文書と同じですが、何点か論点を加え課題を明確にしたつもりです。

 再度投稿することに迷いもありましたが、定期宗会がまもなく開催されることもあり、それまでに、関心のある方に是非お読み頂きたいと思い、投稿することにしました。

はじめに

 まず、「領解(りょうげ)」という言葉に触れておきます。「領解」とは、「教え」についての「自分の受け止め」であり「教え」そのものではないというのが一般的な理解です。ところが、標題下に「(浄土真宗のみ教え)」と書かれているので、「これは領解ではあるが『教え(教義)』でもある」ということなのでしょう。いったい、個人的な受け止めである「領解」と「教え」の関係はどう捉えればよいのでしょうか。

 ひるがえって、今、私たちが頂いている浄土真宗の教えも、元を辿れば親鸞聖人による仏教の「受け止め=領解」ではなかったでしょうか。このことの意味するところは、その「領解」が普遍的(時代や社会を越えてあてはまること)であるかどうかではないでしょうか。普遍的であれば自ずから受け継がれていくのでしょう。

 しかしながら、普遍性の有無を我々が判断することはできません。特定の見解や思想が普遍的であるかどうかは、おそらく、自由な批判・検証にさらされることによって自然に決まっていくのだと思います。これは歴史が証明しています。もしそうなら、未だ普遍性を獲得していない「領解」を、普遍的である「教え」と同等視することになってしまいます。

 それだけではありません。その発布形式が「消息(しょうそく)」であったということにも課題が残ります。なぜなら、2007年の臨時宗会において「宗制」が改正され「消息」が「聖教に準ずる」から削除された理由と矛盾するからです。その理由とは、直接的には宗門が戦時体制に協力したことへの反省からでしたが、それを敷衍して考えると、「消息」がその時代の政治や社会や価値観に左右されるということであり、だから、「聖教に準ずる」から外されたと考えるべきであり、そのことこそ反省の核心だったはずです。その点からしても『新領解文』を括弧付きであっても、いきなり「み教え」として発布した判断は、やはり、再検討しなければならないのではないでしょうか。

 以下、本文の内容に関してまず思うところを述べ、次いで、全体を通して感じるところを述べさせて頂くことにします。

新しい領解文 (浄土真宗のみ教え)

*以下「新領解文」

*○数字は、説明用に石川が付記


《第一段 南無阿弥陀仏の心》

南無阿弥陀仏 

「われにまかせよ そのまま救う」の

           弥陀のよび声

①私の煩悩と仏のさとりは

         本来一つゆえ

②「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身(み)をまかす ③このままで

救い取とられる 自然の浄土

④仏恩報謝の お念仏

《第二段 師徳を讃える》

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された ⑤歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

《第三段 念仏者の生活》

み教えを依りどころに生きる者 となり

⑥少しずつ 執われの心を 離れます

⑦生かされていることに 感謝して

⑧むさぼり いかりに 流されず

⑨穏やかな顔と 優しい言葉

⑩喜びも 悲しみも 分かち合い

⑪日々に 精一杯 つとめます


1 文言に沿って

《第一段 南無阿弥陀仏の心》

①「わたしの煩悩と仏の悟りが本来一つ」  

 これは、勧学寮の『解説』によると「(阿弥陀如来の)智慧の眼で眺めた時」と書かれていますが、仏の智慧を凡夫がこんな簡単に語ってしまってよいのかと思ってしまいますが、それはさておき、我々には難しくてよく分からないところです。ただ、ここは前行を受けて阿弥陀如来による衆生救済の原理を述べているところだと思います。そうすると、阿弥陀如来が一人も残さず必ず救うと誓願をおこされたのは、我々が煩悩具足の凡夫だからではなかったでしょうか。その一点において、ここは大きな疑問です。

 また、「わたしの煩悩と・・・」と、「私の」が付けられ、それが「仏のさとりと本来一つ」といわれると、教えを求める歩みが止まってしまう気がします。あるいは、「私はすでにさとっている」といった傲慢を生むかもしれません。つまり、ここの記述は「み教え」と「領解」が混在してしまっているのではないでしょうか。


②「そのまま救う」       

 「そのまま」とは、「煩悩を断たなくてもよい」ということではなく、私たちが煩悩を断とうにも断てない「煩悩具足」の存在であるからこそ「救われる」対象なのだという、阿弥陀如来による逆説的な救いの原理を意味する言葉だと思います。「煩悩具足」と「救い」は不即不離ではあるけれども、「阿弥陀如来→私」という方向性をもった救いを意味しているのが「そのまま」という言葉ではないでしょうか。

 ところで、「煩悩具足」という言葉はポピュラーになりすぎて、身近な煩悩の例話を聞くと「確かに自分にもある」とわかった気がします。しかし一方で、最近の重大事件の報道を見ていても思うのですが、煩悩の根はもっと深く、私たちにはその深さすらわからないのではないかと思います。「わがこころのよくてころさぬにはあらず」(『歎異鈔』)とはそういうことをいわれている気がします。つまり、「煩悩具足」は私たちの認識を越えた深い闇をも含んでいて、「そのまま」はその領域までも含めた言葉なのでしょう。


③「このままで」           

 「そのまま」が、右のような意味だとすると、それを「このままで」と置き換えることはできないと思います。なぜなら、「このままで」は、自分は救われる存在であると自認している言葉だからです。「救い」は阿弥陀如来の領分ではなかったでしょうか。

 「このまま」は、「阿弥陀如来→私」ではなく、「私→私」という自己肯定の図式になっているのではないでしょうか。

 この点に関しては、即如前門様もその著書『愚の力』の中で次のように注意を促されておられます。


少し考えれば分かることですが、阿弥陀如来が救うといわれるのは、私がこのままではいないから救って下さるのです。私の側が、「このままでいいのですよ」との姿勢であったならば、救いも何もいりません。   同著156頁


 別の視点からもう一言加えると、私たちは自分に都合よく解釈をしますから、「『このまま』でよいのなら何をしても救われるのだ」と(「造悪無碍」)という誤った理解に陥りかねません。これは法然・親鸞が強く戒められた異議です。誤解を生みやすい表現は避けた方がよいと思います。


④「仏恩報謝のお念仏」        

 「仏恩(仏さまのご恩)」とは 念仏往生の教えを明らかにして頂いたことをさします。「報謝」はその仏恩に報いて「感謝のおもい」から念仏するということです。これが本願寺派の通常の解釈です。

 では、「感謝のおもい」が出てこない人はどうなるのでしょうか。そのおもいが出てくるまでその人は救われないということでしょうか。

 私は、「感謝のおもい」が出てきても出てこなくても、喜べても喜べなくても「念仏すること」が「報恩」だと領解しています。これなら私にもできます。そうでないと、「おもい」が出る人は救われ、出ない人は救われないことになってしまいます。救いは「おもい」ごときには左右されないはずです。浄土真宗は、念仏する人を区別なく救う教えではなかったでしょうか。


《第二段 師徳を讃える》

⑤「歴代宗主の尊いお導きによるものです」

  先代以前を指すと思われますが、当門様もいずれそのお一人になられるのですから、ご自身を指すことにもなります。しかも、親鸞聖人と歴代宗主が同格に扱われています。さすがにこれはもう少し控えめに書いた方がよいと思います。

 また、我々に「念仏」を伝えて下さったのは、親・祖父母や先輩念仏者ではなかったでしょうか。その「念仏」は、法蔵菩薩が『仏説無量寿経』の第十七願で「我が名を称えてくれ。そうでなければ私はさとりをひらかない」と願われ、それに応えた十方無量の諸仏が称えられた

「念仏」であると私は頂いています。「念仏」は「念仏」であり、「念仏」の主語を問う必要はないと思うのですが。


《第三段 念仏者の生活》

 生きずらさを感じている人にとってこの段はどう受けとめられるのでしょう。そのことを念頭に考えてみることにします。

⑥「少しずつ 執われの心を 離れます」

⑧「むさぼり いかりに流されず」

 そうなら、浄土真宗の教えは不要ではありませんか。そうなれないから浄土真宗がひらかれたのではなかったでしょうか。まず、勧学寮の解説をみてみます。


そのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活できるという意味です。『新しい領解文(浄土真宗のみ教え)ご消息と解説』29頁      


とされています。しかし、結びには


⑪「日々に精一杯つとめます」


 と書かれていますから、この段を素直に読むと、信後の念仏生活を示しているというよりも、宗教的な生活規範が示されていると読めるのではないでしょうか。とはいっても、そのような生活規範が不要であるというわけではありません。

 現に、1958年の「大谷本廟親鸞聖人七百回大遠忌法要」に際して勝如前々御門主がご消息で「浄土真宗の生活信条」を発布され、現在も日常勤行集等に掲載されていることは周知のことです。ただ、「み教え」としてではなく、「生活信条」と明記されている点が全く異なります。

 問題は、「(浄土真宗のみ教え)」と押さえられる『新領解文』に、生活規範が「み教え」として位置づけられている点にあります。生活規範は「み教え」そのものではないはずです。浄土真宗を道徳化してはならないと思います。

  宗教的な生活規範は、確かに人間の内面から生き方の変革を迫ります。貪り・いかりに流されるな、執われの心を離れよと要請します。しかし、その要請に応えられない絶望的な自己を発見してしまったのが浄土教ではなかったのでしょうか。

 人間精神のこの領域を問題にするには、どうしても「浄土」、「本願」等々の象徴的詩的言語を用いざるを得ません。仏教は言語化が不可能な領域を含んでいるからです。ところが「生活規範=教え」という図式は、仏教からその核心部分を欠落させてしまう危うさをもっているのです。この点も問題ではないでしょうか。

 先に、生活規範の要請に応えられない自己の発見というところに浄土教が説かれなければならない必然性があったと述べました。この点に関して、もう少しだけここで補足しておきます。 これは、言い換えると二種深信の問題だということです。つまり、「新しい領解文」には浄土真宗の宗意安心の要である二種深信の視点が抜け落ちているのではないかということです。これは、浄土真宗の生命線に関わると言っても言いすぎではありません。

 当門様は『念仏者の生き方』の中で、


どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ちきれない煩悩の深さを自覚され、ついに    

比叡山を下り、法然聖人のお導きによって阿弥陀如来の救いのはたらきに出遇われました。 


と二種深信を踏まえて述べておられます。この文脈がなぜ『新領解文』に反映されなかったのか不思議に思います。


⑦「生かされていることに感謝して」

⑨「穏やかな顔と 優しい言葉」 


 生かされていることに感謝できて、穏やかな顔でいられたらどんなにいいだろうと、誰しもが思っていることでしょう。でも、そうなれない人も少なくないのではないでしょうか。

ここには道徳的響きが感じられます。

 全国の小中高校の不登校児童生徒数は35万人を超え、いじめの認知件数は68万件、自殺した児童生徒は400人を超えています。(令和4年度文部科学省による調査結果)他にも自傷行為(自死・自殺念慮を含む)を繰り返す子どもたちもいます。彼・彼女たちの中には、生きていることがつらい、自分はだめな人間、自分が変わらないといけないと、今の自分を受け容れられない人が少なくないと思います。その彼・彼女にとって、この言葉はどう響くでしょう。

 教えに出遇えば「生かされていることに感謝」できるようになっていけるという意味合いで書かれているのかもしれませんが、今そのように思えない者にとって、この言葉は心の前を素通りするばかりか、そのとおりになれない自分を責める道具にもなりかねないことを知っておかねばなりません。

 『宗報』(23.10)掲載の「現代社会と『生きづらさ』」という連載に、自死・自殺の問題に取り組んでいる広島のNPO・Sottoの取り組みが紹介されていますが、その一節に次のような文があります。


・・・お互いが笑い合っているのが理想です。でも笑えない人もいます。そうした人が素直に安

心して、「死にたい」といえる居場所がある、そこで、丁寧に聞いてくれる人がいる、否定

せずに受けとめる人がいる、こうした安心できる場所を作っていこうと活動しています。


  宗派としても、こういう方向性をもっているのなら、『新領解文』の「念仏者の生活」は、それと矛盾すると思います。


自他共に心豊かなに生きることのできる社会の実現に貢献するものである。                                 (『浄土真宗本願寺派宗制』)


 これがわが宗門の目指すところなのですから、なおさらではないでしょうか。


 《念仏者の生活》の段は、述べてきたように道徳的な生活規範という要素の強さという側面からも、二種深信という教義の側面からも、再度検討することが望ましいように思います。


2.全体をとおして         

(1)「わかりやすさ」という誘惑

   当門様が以前に出されたご親教や、今回の「ご消息」発布に際しての前文に「わかりやすさ」と「正しさ」という言葉がたびたび登場します。これらは魅力的な言葉ですが、注意の必要な言葉でもあると思います。まず、「わかりやすさ」ということから考えてみます。

 『阿弥陀経』の中に「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」という言葉が出てきます。これは、仏のこの上ないさとりを意味する言葉なのですが、原語のサンスクリット語「アヌッタラ・サッミャック・サンボーディ」の音写語です。敢えて、中国の言葉に訳さなかったのです。後代の学僧が「無上正真道」などの訳語を当てていますが、『阿弥陀経』の漢訳者はそれをしなかったのです。どうしてでしょうか。

 その理由は、仏教の「さとり」という概念が、中国にはなかったために、中国の言葉に訳してしまうと、誤解を受けたり、中国的な理解になってしまうからです。だから、あえて漢訳しなかったのです。

 仏教のわかりにくさの理由の一つはここにあります。これは単に翻訳の問題ではなく、言葉では容易には説明しきれない「さとり」や「真実」が重要な核心部分となっているのが仏教だからです。

 でも、私たちはやはり「わかりたい」し「わかりやすさ」に誘惑されます。それは必ずしも間違ってはいないのですが、「さとり」や「真実」を歪めてしまうことも知っていなければなりません。

「歪めてしまう」といいましたが、先に述べた「道徳化」もそうですが、言語化すること自体が歪めることでもあるのです。その点からすると、今回の『新領解文』はその誘惑の罠にはまってしまった感もないとはいえません。


(2)「正しさ」という落とし穴  

真実と繋がる言葉と伝道

 「念仏の声を子や孫へ」という本願寺派のスローガンがかつてありました。「諸仏が我が名を称えるようにならなければさとりはひらかない」と誓われた法蔵菩薩の本願と重なって聞こえるのは私だけでしょうか。私は、これまでずっと「なぜ念仏か」ということを悩み続け、聞き続けてきた一僧侶です。ですから、今でも、このスローガンを、寺からの封筒に印刷しています。

我田引水とわかった上でいいますが、仏教の言葉、真宗の言葉は、それだけで人を惹きつける力、真実に繋がる力をもっていると思うのです。「本願」「浄土」「他力」「阿弥陀仏」等々、こういう真実に繋がる言葉について、伝道者自身も苦悩格闘しながら、自分の領解を語っていくことが伝道ということではないかと私は考えています。

 今、『新領解文』が「正しい教え」としてご門主の名の下に示され、同調が求められています。そこに伝道者の苦悩も格闘も必要ではなく、むしろ、そのような主観は排除して進めていくことが求められているように感じます。

 本来の伝道とはどうあるべきなのか。考えさせられます。


「伝える」と「伝わる」

 浄土真宗の教えが「正しく伝わる」ことは大事なことですが、それは、誰かが「正しさ」を決めて、それに従うことを求めて実現されるものではありません。「はじめに」で述べたように普遍的な要素が内在している教えは、自ずと伝わっていくものであり、伝え方や熱意に一義的に依存するものではありません。誤解を怖れずに言うと、正しい教えは、伝わるものであって伝えるものではないと思います。

 総局は「伝える伝道から伝わる伝道」という方針を提唱されていますが、一〇〇%唱和を求めるという、例外を認めない完全主義的な目標設定は、その方針に逆行する結果となるのではないでしょうか。そればかりか、それが摩擦や反発、対立や排除を生む、まさに今そういう状況に陥りかけている気がします。このことについては後にもう一度触れることとします。


正しさの担保

 『新領解文』は、「ご門主のご消息」によって「正しさ」を担保して推し進められているようにみえます。「正しさ」は、どのようにして担保されるべきなのでしょうか。

 そのことに関連して「仏典結集」を思い出しました。仏弟子阿難が記憶していた釈尊の言葉を長老たちの前で語り、仏の教えに相応していると皆が認めれば仏の教えと認定されたのでした。これが「正しさ」を担保する一つの方法です。

 今回の『新領解文』ではこれに匹敵するとは言いませんが、制定過程において十分な議論がなされたのでしょうか。結果的にですが、勧学や司教の方々を始め、これほど多くの人が疑義を呈しているということは、そういうプロセスを経ていないから起こっているのではないでしょうか。つまり、「正しさ」が正しく担保されていなかったということになります。やはり、ここで一度立ち止まって再考することが必要ではないでしょうか。

 国の政治であれば、権力に対するチェック機能が制度的にも社会の中にも備わっています。マスメディアや世論、SNSを始めインターネットもそのような社会的役割を担っています。ところが、宗教教団の場合は、そういう機能が制度的にも社会的にも弱いように思います。それを思うと、今これだけ異論が噴出していることは、宗門の健全性を示しているともいえますが、同時に、宗門の責任ある方々がそれに応じるかどうかが問われているとも言えます。

 『蓮如上人御一代記聞書』に、上人の次のようなエピソードが載っています。


順誓申されしと[云々]。常にはわがまへに てはいはずして、後言いふとて腹立することなり。われはさやうには存ぜず候ふ。わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ。 聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。

〈口語訳〉

順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいうといって腹を立てるものがある。だが、私はそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、私のいないところでもよいから、私の悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである」といわれました。

 『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳)  本願寺出版社 


 これは、宗門人に限らず、責任ある立場の者が常に心しておかねばならないことではないでしょうか。


(3)「100%唱和」の危険性

 宗派は『新領解文』の拝読・唱和をこれまでにないような決意で推進しようとされています。それは「次回の宗勢基本調査(2026年予定)において、寺院行事での100%唱和をめざす」と、宗会と常務委員会という宗派の最高議決機関において、提案されていることから明らかです。(『宗報』2023.4月号、79頁)しかしながら、「100%唱和」という推進対策に潜む危険性に総局はお気づきでしょうか。


・「100%」の問題

 「100%」は、例外を認めないということです。(2)「『正しさ』という落とし穴」で述べたこととも関連しますが、何かを絶対善として完全主義的に目標の達成を求めることは、ピラミッド型の構造をもつ集団の場合、過剰な従順や忠誠、あるいは、強制を生む可能性があります。

 この文脈で戦前を思い起こすのは私だけでしょうか。そのような特質をもつ官僚体制、民間の諸組織が挙って日本を侵略戦争へと導いていったのではなかったでしょうか。我々の教団も例外ではなく、むしろ、積極的に戦争に加担しました。その役割の一つを「消息」が担ったことは歴史の事実です。

 この反省から、2007年の臨時宗会において「宗制」が改正され「消息」が「聖教に準ずる」から削除されたことは記憶に新しいところです。これはすでに「はじめに」で述べたところですが、このことから我々が学ぶべきは、「消息」といえども、時代の制約を免れ得ないということです。だから、それを「み教え」として普遍の側に位置づけることに、大きな疑問が残るのです。自らの価値観が歴史的制約から自由ではないことを承知しておかねばなりません。

 このような反省に立てていれば、「100%」という文言が最高議決機関に提案され議決されることはなかったでしょうし、そもそも、「消息」という形で発布されることはなかったのではないでしょうか。これは教団における民主主義の成熟度が問われる課題でもあります。


・「唱和」は信仰告白でもある

 「唱和」は、人前での信仰告白という要素を持っています。信教の自由の観点からすると、これは、本人の意志に基づいて行われる場合はともかく、他者から強要されるならば「内心の自由(思想及び良心の自由)」が犯される事態になりかねません。「信教の自由」に含まれる「信教の告白を強制されない自由」「信仰に反する行為を拒否する自由」にかかわります。

 これがもし教団内部ではなく、たとえば、公的機関が思想信条に関わる国家理念や道徳を国民に100%の信順を求めたとしたら、人権に関わる大問題になるでしょう。

 僧侶や一般の門徒方もそうですが、とりわけ、就業上宗務員は上長宗務員(一般の上司)の命に従わねばなりませんから、人権規定に抵触するのではないでしょうか。

 とはいえ、公的機関ではない教団が憲法や法律上の人権規定の適用を直接受けることはありません。憲法の私人間効力説を適用すべきだというのでもありません。そうではなく、宗教教団であるが故に、憲法の規定を超える人権思想と高い宗教的倫理をこそ自ら構築すべきではないかと思うのです。そういう教団の体質変革こそ、年齢を超えた世代に浄土真宗が受け止められる制度的な機縁となるのではないでしょうか。


結びにかえて

 『新領解文』の原形は、すでに、「念仏者としての生き方」(2016年のご親教)、「私たちのちかい」(2018年ご親教)、「浄土真宗のみ教え」(2021年ご親教)で公表されています。その際、どうして声が上がらなかったのか不思議です。『新領解文』の制定過程についても不明瞭な面があると指摘されています。

 また、これほどまでに種々の意見が湧出してくるということ自体、制定過程のどこか、あるいは、宗門の組織・機構に不具合があったのかもしれません。この際、宗門機構の点検も必要なのではないでしょうか。

 その際、「身近な非民主主義」に対して誰でも異議を申し立てることができることが宗門の民主化に繋がると思います。「身近な非民主主義」というのは、どういうことかというと、たとえば、多数決を取らない、力のある人の意見が通る、ハラスメント、上長宗務員への忖度や過剰な同調・忠誠などを指します。他にも「何かおかしい」ということがあると思います。そういう時「声を上げる」ことができる組織であってほしいと思います。 

 最後に、信仰はあくまでも個人の自由意志に基づいて行われる行為であり、浄土教は本質的に阿弥陀如来と私との関係において語られるものだと思います。教団はそのような個の信仰を守るための存在であることが一義的に重要なのではないでしょうか。


本願名号を聞信し念仏する人々の同朋教団

                              「『浄土真宗本願寺派宗制』前文」


 これが我らの教団です。この一点を核として私たちは御同行として教団を作っているのです。

それを別の角度からみると、個々の念仏者は、浄土真宗との出遇い方や、言語表現においては差異があり得るということでもあります。それでも、「本願名号を聞信し念仏」するという一点において教団の元に参集していると考えるべきではないかと思います。ですから、教団という組織は、その差異を包摂する寛容さと度量をこそ具えねばならないのであって、その逆ではないはずです。

「100%」はその点においても問題なのです。 このことは、仏教が、言葉では容易には説明しきれない「さとり」や「真実」を重要な核心部分としている宗教であることと別ではありません。それが仏教の時代や社会を超えた普遍性を担保しているからです。


 以上の観点に立脚するとき、『新領解文』の形式(「消息」として発布)、内容、制定・推進方法等について見直した方がよいと私たちは思います。

 総局におかれましては、2024年度の宗務基本方針において唱和推進を掲げないと聞き及んでいます。(『中外日報』2024.2.7)是非その方向で進めて頂くことをお願いするとともに、印刷物・出版物に『新領解文』を掲載することを早急に停止して頂き、形式・内容に関しましても、ここで述べてきました理由からご検討をお願い致しまして「私たちの意見」の結びとします。


2023年11月10日金曜日

黙って枯れていけるか~野良犬ミッチの偉大さ~

   今回は、浅田正作さんの「枯れる」という詩です。


   枯れる

 老いてわかること

 それは

 黙って枯れていく

 草や木の

 偉大さである         浅田正作


 この詩で思い出すのが、22年生きた我が家の愛犬ミッチの死です。もとは野良犬で、ある雨の日ずぶ濡れになって迷い込んできました。そして、いつの間にか居着いてしまいました。野良気質が抜けないのかよく家を抜け出しました。呼び止めても振り返りもせず、とことこと歩き去りました。

 そんなミッチでしたが、前住職の往生の時こんなことがありました。遺体を安置していた部屋の縁の下にどこからか潜り込んで、一晩クンクーンと泣き通してのです。これには私も母親も面目丸つぶれでした。

 それからミッチも次第に衰えていきました。眼が白化し散歩中よく電柱や塀に頭をぶつけるようになりました。なくなる半年ほど前から寝たきり、といっても、横になるのではなく、後ろ足を前足の外側に突き出す、見るからに辛そうな姿勢で一日を過ごしていました。でも、苦痛や辛さを示す表情は見たことはありません。家人の死に泣いても、自分の死の不安や恐怖は感じなかったのでしょう。

 ミッチは草や木に比べれば、人間寄りだと思いますが、従容として死を受け容れ、逝きました。人間には超えられない高みです。私たちはと言えば、若い時はこれもあれもできたと過去の自分に執着し、こんなはずではないと今の自分を受け容れられない。すぐ忘れる、膝が痛い、すぐむせる、なぜ私がこんな病気に等々と愚痴の種はつきません。70代になっても(私のことです)死は他人事で、死が迫れば迫ったでうろたえることでしょう。これが私たち凡夫(私自身)の正直な姿ではないでしょうか。

 仏教は、このように黙って枯れていけない私たちのために説かれたと言ってよいでしょう。とりわけ浄土門の教えでは、死は、仏になれる世界へ生まれる機縁であると意味づけられました。死の意味の大転換です。その浄土をめぐっては、あるとかないとかかまびすしいことですが、要は、黙って枯れていけない私たちのために説かれているということです。しかも、それは、私たちとは比較にならないほど自己の凡夫性に深く苦しみ、救いを釈尊の教えに求めた求道者によって深められ伝えられたことは間違いありません。

 その結論が、ただ念仏して浄土に生まれる、このこと一つです。この教えを信頼するかしないか、それはあなた次第です。どうしますか。

2023年10月29日日曜日

母の在宅介護と「みとり」について~死を共に生きること 

 はじめに

 私は浄土真宗の寺院の僧侶です。教員をしていましたが、60歳が近づくにつれて両立が難しくなり、定年一年前に退職しました。そのお陰で母の人生の最後の2年ほどを、在宅での介護と「みとり」という「特別な時間」として過ごすことができました。

 私の母は、満96歳になった翌日、12月17日に往生しましたが、それまで比較的健康に恵まれ、大きな病気はしたことがありませんでした。それでも、93歳頃から次第に足腰が弱り、横になることも多くなりました。デイ・サービスを勧めましたが、「まだ早い」と首を縦に振りませんでした。「早くはないだろう」と思いましたが、体の状態に頭が追いつくには時間がかかるようです。今の私も同じですからわかります。

 祖母も同じでした。最後の3年間、寺の一室で母の介護を受けながら往(い)きました。老衰でした。伯母も同様に自宅でなくなりました。だから、母もおそらく同じような経過を辿るだろうと、本人も私も予想していましたが、やはり、その通りでした。

 在宅介護が可能かどうかは、住宅事情もそうですが家族や親戚に協力者がいるかが重要です。私の場合、妻がよく手伝ってくれたこと、姉たちが理解・協力してくれたこと、私が早期退職できたこと等条件が揃っていたことが幸いしました。重い認知症や身体介護の必要がなかったことも大きかったと思います。

 望んでいても、条件が整わなければ在宅介護は不可能です。多くの方が病院や高齢者施設に介護や「みとり」を依存せざるを得ない現状の中で、私の経験は稀なことであり、多数派でないことは明らかです。それでも、年老いて介護を受け命終に向かう親と「特別な時間」を、どういう形であれ共有するのは同じだと思います。

 「特別な時間」で私が経験したこと、感じたこと、考えたことを記すことで、これから同じ経験をされるかもしれない方の役に、少しでも立てればと思い、公にすることにしました。

 

「延命治療はいらない」 

 さて、その母ですが、さすがに九十六にもなると、身体の衰えが目立ち始めてきました。その前から「延命治療はいらない」と言い始めていました。この年齢になると友だちに次々と先立たれ、寂しかったようで、それが生への執着を弱めた一因だったかもしれません。長寿はめでたいことではありますが、長生きすればするほど独りぼっちになり、寂しさはいや増していくのです。人生百年時代などという、無責任なキャッチコピーが流行っていますが、そうなれば友だちどころか子どもに先立たれることも十分あり得えます。長寿にはそういう両面性があることを忘れてはならないと思います。

 もう一つ、母は自分だけが長生きしてるという負い目を密かにもっていたかもしれません。というのは、母親は昭和15年から20年の5年間に、夫、2人の兄、そして、3歳の娘を次々になくしているからです。

 昭和20年、終戦の年。夫と娘が同時に結核に罹りました。京都の病院に入院中の夫が危篤状態になったため、娘を妹(私の伯母)に託して夫の元へ走りました。しかし、その甲斐なく逝去。その直後、自宅から娘危篤の知らせに取って返すも、時遅く妹の腕の中で息を引き取ったのでした。母は玄関の上がり口で倒れ込んだそうです。

 存命中、母はこのことについて、話をするだけでも苦しくなって話し通せないほどでした。


 もうすぐ皆に会える。娘に会える


だから、「延命はしない」と決めていたようにも思えるのです。


延命「治療」と「措置」

 「延命」を望まない現実的な理由もありました。それは夫(私の父)の最後の様子でした。2回目の脳梗塞で入院した夫を待っていたのは気道確保のための気管挿管でした。しかし、3週間後には心停止。いきなり医師看護師がやって来て十分な説明もないまま電気ショックによる心肺蘇生が施されました。通電の度に父親がベッドの上で宙に浮きました。役割を終えた心臓を無理矢理叩き起こしているようで、見るに耐えませんでした。

 「延命」ということで、先ず浮かぶのはこの時の情景でした。これは「治療」ではなく「蘇生措置」でしたが、母親が延命治療を厭うのは、このイメージがあったことも一因だったと思います。私たちはあたかも自分が受けているかのような錯覚に陥り、それを「延命治療」という言葉に結びつけていたのでした。「延命治療」がそういうものをさすのではないとわかるのは、もうすこし後になってからのことでした。

 延命治療を母が望まない理由を考えてみました。確かにいろいろあるでしょうが、本人が望んでも、それを最後に決断するのは、多分私です。そこでかかりつけ医にも伝えておこうということになり2人で病院を訪れました。そのことを話すと、意外にあっさり了解して下さいました。

 こういう重要な判断を伴う相談は、家族や兄弟は当然ですが、第三者でも掛かり付け医に話しておくことが大切です。


点滴は延命治療

 「延命治療」が、現実になってきたのは命終の4か月前の夏頃からでした。お盆すぎ、母親の食欲がガタンと落ちました。聞くと「苦いから」といいます。桃もいちじくも苦い、水まで苦い。ポッカレモンを垂らすと飲めることもあるとの看護師のアドバイス。やってみました。「飲める!」 しかし、長続きはしませんでした。

 口腔内をきれいにしてみようということで、入れ歯の清掃をすることに。これは私の仕事になりました。最初抵抗感がありましたがすぐ慣れました。「ポリデントってこれか」。もうすぐ私も世話になるだろうと思いながら。

 水も飲めないとなると心配になるのが脱水です。そこでかかりつけ医に点滴を頼みました。ところが、その返事にびっくり。


 点滴は延命治療になりますが・・・


と真顔で問われ、脱水状態を「改善」したいだけでしたが、それが延命治療になるとは! 「治療」と先生は言われましたが、それは、我々家族の気持ちを慮ってそう言われたのであり、母親の状態からするとそれは延命「措置」なのでしょう。それにしても、「改善」のための治療と延命「措置」は、どこで分けるのでしょうか。定義があるかどうか知りませんが、おそらく、命終に向かって自然に進んでいる状態を逆行させることが延命「措置」ということなのだろうと思います。実際、そういう状態での点滴は苦痛を持続させるにすぎないこともあると、後で知りました。

 ともかく、その時、母親がそういう選択を迫られる状態だという現実を突きつけられたのでした。

 それでも、私は点滴をお願いしました。「改善」の見込みがないと思えなかったからです。身内の者が近親者の症状を客観的に判断できないことは、父の時に経験済みでしたが、この時もやはり同じでした。

 結局、痩せ細った腕には針がうまく刺さらず、週に2回程度、200CC、多くても400CCするに止まりました。体はとっくに点滴を拒否していたのに、見るに見かねた私が耐えられなかったのです。

 その内、数少ない点滴も、母は「もういい」と止めてしまいました。「延命治療」はいったい誰のためにするのか。その答は必ずしも明確ではない気がします。


不測の事態

 九月中頃の早朝、母親の突然の叫び声で目が覚めました。天井を睨みながら


 龍みたいものが襲ってくる!


と喚くのです。と思うと笑いだす。これには背筋がぞっとしました。


 大丈夫。何もいないから


となだめても聞く耳もちません。後でわかりましたが、これは「せん妄」という一種の意識障害でした。原因はいろいろあり脱水もその一つ。このような不測の事態に出くわすと、どうしてよいかかわからず強い不安に襲われます。在宅介護や「みとり」をする場合、起こりうる事態について事前に医師に尋ねておくとよいと思いました。


認知機能の低下

 九月末になると気温が下がったこともありますが、食欲が少し回復しました。これには医師も驚きました。しかし、認知機能の低下は進みました。2人の娘を思いだすことができませんでした。私のことも誰かわからない様子でした。

 姉たちが来た時のことです。母親が、


 いつも世話してくれるメガネかけた親切な男の人、あれ誰やったかいな


と姉に尋ねたそうです。


 あれは教(のり)さん(私のこと)やんか


というと、母親は


 そやった、そやった。何言うてるんやろ。


といつものように上品に笑ったとのこと。これを聞いて皆大笑いしました。親の認知症が進んで自分のことを忘れられると少し悲しくなります。しかし、目の前にいるのは紛れもなく我が母です。だったら、「今の母」との時間を大切にすればそれでよい、そう思ったら楽になりました。「メガネかけた親切な男の人」でよいかと。

 これは最近聞いた話ですが、物忘れがひどく毎朝財布を探す母親に息子が一言。「さあ、お母さんの宝探し始まったぞ」。深刻な事態を深刻に受け止めると苦しくなったり、不安から怒りの感情が沸いてくることが少なからずあります。それを避けるためにも、こういうジョークは大切ですね。皆が救われます。


入院と認知機能

 認知機能の低下ということで、話の流れからそれますが、ここで少し書いておこうと思います。春先のことでしたが、一度救急で入院したことがありました。その時、症状がそれほどひどくなかったので、そのまま帰宅するか数日でも入院するか迷ったことがありました。救急医が最初に心配したのは、認知機能の低下が進むことでした。環境が変わると、高齢者でなくても一気に症状が現れることがあるといます。迷いましたが、大事を取って入院することにしました。

 しかし、救急医の予想が的中。


 くにちゃん(姪のこと)が、看護師しているわ。なんでやろ


という言葉にびっくり。くにちゃんというのは、母の姪のことです。もちろん、それはありえません。

 また、とっくの昔になくなった自分の兄を


 宋仁(そうにん)さん、どうしてはるやろ


と真顔で尋ねることも度々でした。宋仁というのは、二十代でなく母の次兄です。因みに、長兄も三十代で同じ病で亡くなりました。


不安材料を取り除く

 このような記憶の混濁はさほど困らないのですが、見当識の低下は少々難儀しました。ここがどこかわからない、入院中であることもわからない。しかし、家でないことはわかるので、早く帰りたいと看護師にせまり、だめとわかると怒りだして点滴のチューブを抜き、ベッドから出ようとするのです。看護師が困り果てて電話してこられました。「誰か付き添ってください」と。「24時間看護」ではないのかと思いましたが、それはあくまで治療の必要な患者を「看護」する制度であり、「介護」的な部分は含まれていないからでしょう。それはそうかもしれないと納得せざるを得ませんでした。

 とはいえ、私も妻も、夜に泊まることはできても、昼にずっと付き添うわけにはいきません。姉たちも協力してくれましたが、それぞれ生活があります。母と話してみると、どうやら、自分がほっとかれることへの不安が大きいことがわかりました。そこで考えました。誰も横に付けない時は、


 ○○時になったら来るからね


と約束し、忘れても大丈夫なように、腕に布を巻いて、そこに、次に私が来る時間と私の名前を書き


 いつもこれを見るのやで


と言ったところ、少し落ち着いたようでした。記憶するのが難しければ、目で見てわかるようにすればよい。これは自閉症スペクトラムと言われる障害をもつ人への支援方法から学びました。町の至る所にイラストやわかりよい文字で表示された案内があります。トイレの男女表示がその典型です。この支援方法を援用しました。


変わらない日常

 数日で退院。帰宅すると認知機能が入院前の状態までは戻りました。それで思ったのですが、場所・空間は、精神の安定を支える土台なのだと。入院に限らず、高齢になってから転居やリフォームをすると、その変化に認知がすぐには追いつかないようです。それが不安材料ともなって認知症が進みやすくなる気がします。

 私たちは、住まいはもとより、町の風景や近所の人間関係も含めた「変わらない日常」によって精神の安定を得られているのではないでしょうか。仕事でも旅行でも、帰った時に「変わらぬ日常」があるから安心して出かけられるのです。とりわけ「見知った人」の存在が大きいと思います。仮に家族であることを忘れても、「見知った人」が変わらず側にいてくれる、これが大事だと思います。「メガネをかけた親切な男の人」でよいというのはそういうことです。

  高齢者施設でも、そういう配慮をしてくれると有り難いですね。

若い時は変化に柔軟に対応できるのでしょうが、高齢になるとそれがだんだん難しくなっていくようです。


老衰もしんどい

 さて、10月の中旬、命終の二ヶ月ほど前。この頃になると「しんどい」を連発するようになりました。どこがというわけではなく、体全体がいいようもなくしんどいといいます。老衰とか自然死というとローソクが消えるような穏やかなイメージがありますが、なかなかそうはいかないのです。仏教では「生老病死」を四苦といいますが、この場合の「死苦」というのは、死に向かって生きることの実存的精神的な苦であるとともに、身体的な苦でもあると、改めて思いました。寄り添うというのは、その両方の苦に耳を傾けることなのでしょうね。

 しかし、何度も同じ繰り言を聞くのは正直面倒くさいことです。「皆そう」とか「年のせい」と言ってしまいます。私は教員をしながらカウンセリングもしてきましたが、そこで痛感したのは「聞く」ことの大切さです。それでも、相手が親となると聞けないのです。その理由の詮索はさて置き、カウンセリングで学んだことがもう一つあります。それは、精神的な苦も身体的な苦でさえも、聞いてもらうだけで軽減するということです。小さい頃、母親に「いたいねいたいね」と受け止めてもらうだけで痛みが薄らいだことってありますよね。あれです。

 同じ繰り言を聞くのは、介護をする側にとっては苦痛でさえあります。でも、少し時間を割いて「聞く」ことによって、本人の苦が和らぎ、繰り言の回数が減るように思います。


嚥下障害

 嚥下障害も起こってきました。飲み物はとろみを付けないとむせます。私もこの年になってわかりましたが、飲み込むタイミングと喉頭蓋(気管へ通じるドア)が閉じるタイミングが合わないのです。先日、うどんをツルッと喉に流し込もうとしたらむせ返ってしまいました。喉頭蓋が閉じる前にうどんの先端が気管に入りかけたからでしょう。とろみを付けるのは、口から喉へ入る速度を緩めるためだったですね。 何事も経験しないとわからないものです。


プライド

 それでも用はトイレで足し続けました。妻や私の支えを借りてですが。体力がないので、行って戻るだけでえづくほど疲れ果てました。オムツをしたのは臨終の二週間前、12月に入ってからでした。大正ひと桁生まれの女性としてのプライドは、認知能力の高低に左右されないのかと驚きました。

 母の母親、私の祖母は明治生まれのたいへん躾に厳しい人でした。カビが生えたご飯でも「洗って食べなさい」というほどでした。私には優しかったので、この話題になるといつも姉から「あんたは男の子やったから」と妬まれるのですが。娘たちは、女らしさをたたき込まれたのでした。

 そんな親に育てられた母親でしたから、ポータブル・トイレを部屋に用意した時も、


 そんな楽なことしてたらあかん


と一蹴しました。それでも使用を勧めると渋々同意しましたが、


 使ったら自分で始末するから


というではありませんか。それなら最初からトイレで用を足した方が早いというと、ブツブツ言いながら結局1、2回使っただけで結局返却しました。


「ホー、よろしゅうに」

 12月に入ると、血圧、血流、整腸、睡眠導入などの薬を全部止めました。主治医の判断で自然に任そうということになったからです。黙っていることが多くなり、精神活動がさらに低下している感じがしました。

 臨終4日前。3日早かったのですが、家族と姉たちで母親の96歳の誕生日を祝いました。表情も硬く、誰かもほとんどわかっていなかったようです。それでも私が


 今日は横に寝るからね


というと、

 

 ホー、よろしゅうに


ととぼけた言い方をしたので皆で笑いました。これが言葉らしい最後の言葉でした。


ハンカチ

 命終3日前。妻がオムツを替えようとすると、パジャマを手で押さえて拒否の意思表示。それで、


 恥ずかしいのか。じゃあ、顔にハンカチ掛けて見えないようにしよ うか


といって、顔を覆うと素直に任せてくれました。先ほども触れましたが、精神活動が低下しても、「恥ずかしい」という感情はあるのです。どんな状態になっていても、人間としての尊厳を侵さないケアをしなければならないとその時思いました。

 命終2日前。無表情となり、何を見つめているのかと思いましたが、顔の向きに視線を向けているだけでした。


最後の笑い

 命終前日。この日が96歳の誕生日でした。手が冷たくなっていきました。末梢まで血液が行き渡らないからでしょう。気休めとわかっていましたが手袋をはめました。

 吸い口で水を飲ませて、


 赤ちゃんみたいな

 昔、してもらったこと、今してあげてるみたいや


というと表情が緩み、小さく笑った気がしました。


手を握って

 そして、12月17日朝。脈をとると30ほどしかありません。呼んでも揺すっても反応がありません。すぐにかかりつけ医に電話しました。


 すぐに行くがそれまで、そのまま手を握っててあげて下さい


とのこと。この時、一瞬、救急車を呼ぶか迷いましたが、思いとどまりました。「それは違うだろう」と。

 脈拍の間隔が次第に開いていき次の拍がなかなかきません。「ああ、往(い)ったのかなあ」と思った時、かかりつけ医が来て下さりました。そして、脈をとり臨終を告げられました。しかし、母親の死を実感したのはその時ではありません。私が実感したのは母親の体が冷たくなってしまった時です。その時初めて、母の死を納得しました。96歳と一日の生涯でした。


かかりつけ医

 命終の時、救急車を呼ぶか一瞬迷ったと先に書きました。そのことについて、もう少し付け加えておきます。

 なぜ迷ったのかと考えると、おそらく、119番しなければ、助かる命を放置することになるのではないかと、その責任の重さに怯んだのだと思います。終焉に向かう自然の流れをためらいなく受け容れることは、そう容易いことではありませんでした。延命治療(措置)を断っていても、いざとなるとそうなのでした。

 その不安とためらいを越えられた理由の第一はかかりつけ医の存在でした。医療的なケアや介護についての相談だけではなく、119番しないという判断の心理的かつ法的な支えは大きかったと思います。もし、家族の判断だけでの在宅死であれば、昔ならともかく、警察の取調を受けることは必至です。かかりつけ医があることでそういう心配をせずに命終を迎えられたことは大きかったです。

  それでも、心のどこかで自分の判断が気になっていました。その整理がついたのは数年後のことでした。たまたま、在宅医療・看取りを進める活動をされている東近江地域医療連携ネットワーク「三方よし研究会」の医師の講演を聞きにいきました。その場で私は、母の場合の判断について質問しました。医師の答は「間違っていない。救急隊員が到着した際にすでに死亡していれば警察へ通報されることになる。だから、かかりつけ医をもつことが大事なのだ」と言われ、「『かかりつけ医を持とう』を今日のまとめにします」と言っていただき、胸のつかえがおりました。

 とはいえ、休日など医師と連絡が取れないこともあります。そういう場合の対処方法を事前に医師とよく相談しておく方がよいと思います。私は医師から携帯の電話番号を教えてもらっていたので心強かったです。

 周りの理解と同意も必要です。妻はもとよりですがきょうだい(私の場合は二人の姉)の理解は必須です。彼女たちが延命を望んでいると、私は姉から批難されるどころでは済まないかもしれません。幸いにして姉たちは同意してくれていました。


私の判断が母の判断

 右のような条件が揃っても、救急車を呼ぶか呼ばないかを決める私の心理的な負担は重いものがあります。適切かどうか正しいかどうかということもあれば、母が望んでいるかどうかもあります。しかし、そのどれについても、おそらく誰も正解は持っていないと思います。では、私はどう思おうとしたかといいますと


 私の判断が母の判断


と思うことにしました。何の根拠もないのですが、敢えて言えば、乳幼児が病気の時、全ての判断は親がするのと同じだということです。その時にしてもらったであろうことを今度は私がするのです。吸い口で水を飲ませてあげたように。

 それは肉親だからそう思えるのではないかと言われればそうかもしれません。しかし、なき妻の母親を自宅に引き取って介護し、最後を看取った友人がいます。彼には、私と同じことをいえると思います。要は、肉親かどうかより親身になって世話をしたかどうかではないでしょうか。私はそう思います。


「みとり」ということ

 最後に、私が看取りのことを敢えてひらがなで「みとり」と書いた思いを述べることにします。

 「はじめに」で書いたように、在宅介護と看取りはよほど条件が揃わないとできません。その面で私は恵まれていました。しかし、恵まれていたのはその結果もでした。人に憚ることなく、介護という名の下に母との「特別な時間」を共有できたからです。それともう一つ、これがより重要ですが、老いて命終していくありのままのすがたを私に見せて、みとらせてくれたことです。

 通常、看取りは人がなくなる際、看病・介護して臨終の瞬間まで見守ることであり、見送る側の行為として語られます。それは間違いないことですが、母の看取りを通して感じたことは、看取りは、送る者が送られる者を一方的に見送るだけの出来事ではないということでした。医療や福祉の専門職の方々であっても、人ひとりが命終していく道程を、ただ世話するだけ、見送るだけでは済まないはずです。まして肉親であればです。大なり小なり「死を共に生きる」という経験を伴うのではないかと思うのです。

 「死を共に生きる」というのは奇妙に聞こえるかもしれません。「死」は死であって生きることではないと。しかし、よく考えてみると、私たちは自分の死を直接には経験できません。経験した時にはすでに死んでいるわけですから。経験できるのは、死にゆくいのちを生きることだけです。

 送る側はというと、深い喪失の予感に震えつつ、自らに死の事実を刻印しながら、その人と一緒に生きるのです。「死を共に生きる」というのはこういうことです。「みとり」は、このような内実をもった事態ではないかと思うのです。「看取り」と書かず、あえて「みとり」と平仮名で表記したのはそうした理由からです。


おわりに

 私と母が過ごした「特別な時間」について書いてきましたが、書いていると母と共にいる感覚があるのは不思議なことです。「特別な時間」の延長線上にいるような。


 在宅介護と看取りを前提に書いてきましたが、それらが不可能なことが多いのが現実です。その場合であっても、今述べてきたプロセスは同じだと思います。「死を共に生きる」という意識をもっていれば、看取りは「みとり」になり得ると私は思います。

 そして「みとり」は、私たちの心に「死という碇(いかり)」を沈めて、日常生活に翻弄され、宗教的生き方を見失いがちな私たちを、そこにつなぎ止めてくれるのではないかと考えています。

















 

2023年10月16日月曜日

思い通りにならないのは自然も体も同じ

 門前の掲示版に「今月の言葉」と題して、いろいろな方の一言(私のも含めて)を紹介しています。そこに、私が感じたこと、考えたことを「私のひとこと」として書き沿えています。

 このブログではその文章をリメークして投稿します。お気軽にお読み下さい。

 今回は木村無相さんの詩をご紹介します。


   カラダよ 

 人生 生きて七十年

 わたしをまもってくれた カラダよ-

 あなたのおかげで 生きられた

 わたしわたしという このわたしが 

 あなたのおかげで 生きられた

 真夜中に ハラを撫でつつ

 かくおもう

 “おおカラダよ-”         木村無相 

私のひとこと

  7月はじめコロナに感染しました。どこでうつったのか皆目見当が付きません。それほど感染力が強いのか、免疫力が低下していたのか、両方か。熱も39.1度が2日続きました。頭痛に加えて喉がものすごく痛み、ものが喉を通りませんでした。味覚も変に。5日間ほど横になっていたでしょうか。特効薬もなく自然治癒を待つしかありませんでした。結局、完全復調するのに2週間ほどかかりました。

 私が伏せっている頃、九州北部に大雨特別警報が発令され、福岡県や大分県において数年から数十年に一度の「稀な」大雨とのこと。浸水などの被害が発生しました。自然の猛威に人間はなすすべ無しです。通り過ぎるのを待つばかりです。自然は私の思い通りには、決してなってくれません。

 それで思ったのです。私の身体も同じだ。風邪が治るのを待つばかり。身体は、私のモノではなく自然そのものだったんだ! と。

 手も足も自分の意志で動かせるし、運動で健康を保つこともできる。治せる病気もたくさんある。確かにそのように思えますが、それらも勘違いなのです。私が身体をコントロールしているように思えますが、実は、身体がそのコントロールを受け容れているからこそできるのです。身体がノーと言えば、それこそ手も足も出ないのです。

 一番近いところに、自分の思い通りにはならないこと、カラダがあったのです。でも、カラダはずっとずーっと、わたしのことを認め、私を生かし、私を守ってくれていたのでした。そのことをすっかり忘れていました。ありがとうカラダさん。


2023年8月15日火曜日


 浄土真宗の「お盆」               

■盂蘭盆会(うらぼんえ)の語源

 「お盆」は正しくは孟蘭盆会といいます。その起源は『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』にあると言われています。一説によると「盂蘭」は「ウランバナ」というインドの言葉の音訳で、「逆さ吊りにされたような苦しみ」という意味です。「盆」は中国語で、食物を盛る容器をさします。つまり、逆さまに吊されるほどの苦しみから救われることを説くお経、それが『盂蘭盆経』とされています。

 ただ、浄土真宗の立場からは、どう受け止めればよいか困惑するところもあります。以下では、その辺りにも焦点を当てながら、私なりにお盆の受け止め方について述べさせて頂くことにします。

■『盂蘭盆経』のあらすじ

 まず、お経のあらすじをお話しましょう。

 お釈迦様の高弟に目連(もくれん)という人がいました。その目連がある時亡き母の行方が心配になって、修行で身に付けた神通力(じんずうりき)によって母親の居所を探しました。すると餓鬼道(がきどう)に堕ちているではないですか。目は落ち込み、体はがりがりです。急いでご飯を差し出しましたが、母親が口に入れようとした途端、突然火がついて食べられません。目連は、大きな声をあげて泣きました。

 目連は、お釈迦さまに一部始終を話し、母親を餓鬼道から救う道を尋ねました。お釈迦さまは、「目連よ、あなたの母は罪が非常に重いので、お前一人の力ではどうすることも出来ない。近々、高僧が集まる安居(あんご)という集まりがあるので、その方々に供養をしなさい。そうすれば母親は救われるであろう」と諭されました。そこで、目連がその通りにしたところ母親は救われました。

■お盆の解釈

 目連の高僧への供養によって母親が餓鬼道から救われるという筋立ての上に、先祖の霊を供養して救おうとする民間信仰が混じって

現在のお盆の習慣ができたようです。

 さて、このお経の言わんとするところはそれだけなのでしょうか。というのは、このお経の説くところをじっくり読んでみると矛盾するところがあるのです。その辺りに焦点を当てながら、私なりに自由に解釈をしてみようと思います。

■六道輪廻(ろくどうりんね)

 まずはポイントとなる言葉の説明から入ります。最初に六道輪廻。一般的な仏教では、一切の衆生は現世(げんぜ)の行為によって来世(らいせ)が決まるとされています。悟って仏にならない限り六つの迷いの世界(六道)をぐるぐると経巡る(輪廻)ことになります。これを六道輪廻といいます。

 六道とは地獄道、餓鬼道、畜生(ちくしよう)道、修羅(しゅら)道、人間、天(てん)道の六つです。目連の母親が堕ちた「餓鬼道」とは、どのような人が堕ちる世界なのでしょうか。その因は慳貪(けんどん)といわれます。「慳(けん)」は「けちで物惜しみをすること」、「貪(とん)」は「人並み以上に欲が強く(貪欲)、満足を知らないこと」です。この心に支配されると、自己の欲望満足にしか関心がなくなり他者は視野に入らなくなってしまいます。

■神通力(じんずうりき)とは

 「神」は「計り知れない」、「通」は「自在」ということで、通常は「超人的な能力」と訳されます。しかし、仏典の中では、「仏道を究めて得られる高度な智慧」という意味で使われているようです。平たく言えば、物事を仏教の原理によって見つめることができる力といってよいでしょう。

■目連の母親

 母親の人となりにも触れておきましょう。母親は目連を非常にかわいがって大切に育てたようです。彼が出家して他の修行僧たちと共に托鉢(たくはつ)にまわっていた時も、目連にだけたくさんの食べ物を布施したというそういう母親だったそうです。そのような母親が、なぜ、餓鬼道に堕ちねばならなかったのか、目連には信じられなかったことでしょう。

■母親の布施(ふせ)

 さて、ここからが本論です。まず最初の疑問。
母親はなぜ餓鬼道に堕(お)ちたのか。それを托鉢中の息子への「布施」から考えてみます。

 「布施」は「布施行」といい「欲を捨てる」ための修行です。布施は、布施をする者も、受ける者も、布施される物も清浄(しょうじよう)でなければなりません。これを三輪清浄(さんりんしょうじよう)といいます。

 布施がこのようなものであるなら、母親が目連に差し出した布施物は清浄ではなかったことになります。なぜなら、それは目連にだけ特別に手厚く盛られていたからです。我が子を誰よりも愛した母親ではありましたが、その故に、母親の布施行は、我が子の身を案じた肉親の情からの行為だったからです。

■避けがたい餓鬼道

 そのことからわかるのは、我が子しか目に入らず、我が子の幸せだけを願う親の姿です。そのような愛情によってこそ子どもはすくすく育ちます。これは間違いありません。しかし、反面で、それは盲目的であり、また、親自身の我欲の充足という通常意識されない側面ももっています。親の子どもへの愛情はそういう三面性を抜きがたくもっているのです。従って、目連の母親に限らず、世の親は、餓鬼道に堕ちる原因(これを業因(ごういん)といいます)を避けがたくもっているのです。これは、認め辛いことですが、私は、自分を振り返っても間違いないことだと思っています。

 餓鬼道に堕ちる業因は慳貪(けんどん)だと先にいいました。慳貪の対象は基本は物ですが、右で述べたようにその対象を精神的な領域まで広げると、餓鬼道に堕ちない親はないとさえいえることがわかってきます。

 これが母親が餓鬼道に堕ちた理由だったのではないでしょうか。

■矛盾する供養(くよう)

 それにしても、餓鬼道に堕ちた目連の驚きと悲しみは相当深かったに違いありませんが、そこは釈尊の高弟です。すぐさま、母親が餓鬼道に堕ちた理由に気づき、救うすべを釈尊に相談をしたのでしょう。その時の答は先のとおり、高僧たちに供養せよでした。

 この時、目連は首をかしげたのではないかと私は思います。なぜかというと、「供養」というのは、仏さまへの尊敬と感謝のために財物を供える無償の行為です。見返りを期待してする行為ではありません。母親を助けたい想いでするならば、それは見返りを期待することですから供養にはなりません。どうしてお釈迦様は日頃とは矛盾することを仰るのだろうと目連は疑問に思ったはずです。

 それでも、目連は疑いをはさまず、釈尊の言われるままに諸僧に供養したのでした。すると、母親は餓鬼道から救われたではないですか。とすると、やはり、私がした供養が役にたったと考えればよいのだろうかと、目連は再び自問したはずです。

■「ただ供養(くよう)」ということ

 さあ、皆さんならこの疑問にどう答えますか。

 清浄な心をもって行う供養が本物で、そうでない供養は偽物である。これが通常の考え方です。しかし、この考え方は、その時の目連にとっては不可能でした。母親を救いたい思いを打ち消せなかったからです。では、どのような心で供養すればよいのか、目連は迷ったはずです。清浄ではない心で供養しても助からない。けれど、供養しなければ助からない、この葛藤に苦しんだはずです。

 そして、こう考えたのではないかと。自分の心を変えられると思うことが思い上がりだったのではないか。大事なことは、お釈迦様の言葉を信頼して「ただ供養」することではないか。お釈迦様がそうすれば救われると仰るのだから、後はお任せしようと。

 目連にこのような変化があったとすれば、それは自力から他力への変化だったといえるかもしえません。己をたよりにするか、仏(阿弥陀様)をたよりにするかということです。

■念仏者を見捨てない阿弥陀さま

 お盆のお話をしてきました。しかし、浄土真宗ではお盆に限らず、あらゆる仏事は、阿弥陀様が、南無阿弥陀仏と念仏する人を見捨てず浄土に往生さそうとされるご縁に遇う場と頂いています。

親鸞聖人は、ご和讃の中でこう言われています。

 十方微塵世界の(無数の世界の)         

 念仏の衆生をみそなわし(ごらんになり) 

 摂取して捨てざれば(だれ一人見捨てない)

 阿弥陀と名づけたてまつる    (そのことをあらゆる人々に伝えるため、敢えて「阿弥陀」                                               と名前をお付けしたのです。)


このことを信頼して、まず、共に念仏することからはじめませんか。難しい話は後回しにして。


 


2023年6月28日水曜日

新しい領解文(浄土真宗のみ教え)  ~私たちの意見~

はじめに

 「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」が御門主(浄土真宗本願寺派)のご消息として発布されました。しかし、宗門内外から意見や批判が相次いでいる現状です。私が住職をしている寺のご門徒からも、これまで聞いてきた浄土真宗の教えとは違うのではないかという疑問も出ています。「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」(以下、『新領解文』)への種々の声に対して宗派として見解を示してほしいと直接本山に要望の手紙を出された方もおられます。

 このような声や行動を知り、私自身も『新領解文』についての見解を文書にすることに致しました。教学的に不十分な点や思い違い等もあるかと思いますが、一宗門人としての私の思いを率直に述べさせて頂きました。また、ご門徒の皆さんにも読んで頂くことを前提に専門的な言葉はできるだけ控えました。

 「私たちの意見」は、当寺の門徒総代の賛同を得て2023年6月1日付で連名で総局に提出し、ご回答をお願いしているところです。

 このブログ(HP)をお読みの本願寺派の皆様には、ご賛同頂ければ幸いですが、そうでなくとも、これだけ種々の意見・批判が社会的にも広がった今、何らかの意見や感想を、賛否にかかわらず、ともに述べていくことが大事ではないかと考えます。

 また、浄土真宗とまだそれほどご縁のないみなさまにも、『新領解文』とこの「ブログ」をお読み頂きまして、それぞれのお仲間(宗教上に限らず日常の)との間で話題にして頂き、仏教あるいは宗教について考えるきっかけにしていただければ幸いです。

新しい領解文(浄土真宗のみ教え)   

 まず、『新領解文』の本文を掲載します。文中の○数字は、その後の同番号のところに「意見」を述べています。



新しい領解文(浄土真宗のみ教え)      

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ①

「そのまま救う」②が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで③

救い取とられる 自然の浄土

仏恩報謝④の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主⑤の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者となり

少しずつ 執われの心を 離れます⑥

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず⑦

穏やかな顔と 優しい言葉⑧

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます

 令和五年一月十六日               龍谷門主 釋専如


「領解」ということ

 まず、「領解」という言葉に触れておきます。「領解」とは、「教え」についての「自分の受け止め」であり「教え」そのものではないというのが一般的な理解です。ところが、標題下に「(浄土真宗のみ教え)」と書かれているので、「これは領解ではあるが『教え(教義)』でもある」ということなのでしょう。いったい、個人的な受け止めである「領解」と「教え」の関係はどう捉えればよいのでしょうか。

 ひるがえって、今、私たちが頂いている浄土真宗の教えも、元を辿れば親鸞聖人による仏教の「受け止め=領解」ではなかったでしょうか。このことの意味するところは、その「領解」が普遍的(時代や社会を越えてあてはまること)であるかどうかということになるのではないでしょうか。普遍的であれば自ずから受け継がれていくのでしょう。そこが「新領解文」を考える際の、重要なポイントなると思います。

 しかしながら、普遍性の有無を我々が判断することはできません。特定の見解や思想が普遍的であるかどうかは、おそらく、自由な批判・検証にさらされることによって自然に決まっていくのだと思います。これは歴史が証明していることではないでしょうか。従って、総局がいわれるような「次回の宗勢基本調査(2026年予定)において、寺院行事での100%唱和をめざす」といった性急な進め方は理にかなっているとは思えません。このことについては最後に触れさせて頂きます。

 以下、内容に関してまず思うところを述べ、次いで、全体を通して感じるところを述べさせて頂くことにします。

文言に沿って

「わたしの煩悩と仏の悟りが本来一つ」は、勧学寮の『解説』によると「(阿弥陀如来の)智慧の眼で眺めた時」と書かれています。そうだとしても、それは観想や瞑想によって到達できる高い境地であり、凡夫のための教えである浄土真宗とは一線を画すものではないでしょうか。

 阿弥陀如来が一人も残さず必ず救うと誓願をおこされたとされるのは、我々が煩悩具足の凡夫だからです。誓願がおこされたことと凡夫の煩悩具足は不即不離です。しかし、それは「煩悩とさとりが一つ」ということではありません。

 また、「わたしの煩悩と・・・」と、「私の」が付けられ、それが「仏のさとりと本来一つ」といわれると、教えを求める歩みが止まってしまう気がします。あるいは、「私はすでにさとっている」といった傲慢を生むかもしれません。

 いずれにしても、浄土真宗にはそぐはない領解ではないでしょうか。

「そのまま」とは、「煩悩を断たなくてもよい」ということではなく、私たちが煩悩を断とうにも断てない「煩悩具足」の存在であるからこそ「救われる」対象なのだという、阿弥陀如来による逆説的な救いの原理を意味する言葉だと思います。「煩悩具足」と「救い」は不即不離ではあるけれども、「阿弥陀如来→私」という方向性をもった救いを意味しているのが「そのまま」という言葉です。

 ところで、「煩悩具足」という言葉はポピュラーになりすぎて、身近な煩悩の例話を聞くと「確かに自分にもある」とわかった気がします。しかし一方で、最近の重大事件の報道を見ていても思うのですが、煩悩の根はもっと深く、私たちにはその深さすらわからないのではないかと思います。「わがこころのよくてころさぬにはあらず」(『歎異鈔』)とはそういうことをいわれている気がします。つまり、「煩悩具足」は私たちの認識を越えた深い闇をも含んでいて、「そのまま」はその領域までも含めた言葉なのでしょう。


「そのまま」が、右のような意味だとすると、 それを「このままで」と置き換えることはできないと思います。なぜなら、「このままで」は、自分は救われる存在であると自認している言葉だからです。「救い」は阿弥陀如来の領分ではなかったでしょうか。

 「このまま」は、「阿弥陀如来→私」ではなく、「私→私」という自己肯定の図式になっているのではないでしょうか。

 別の視点からもう一言加えると、私たちは自分に都合よく解釈をしますから、「『このまま』でよいのなら何をしても救われるのだ」と(「造悪無碍」)という誤った理解に陥りかねません。これは法然・親鸞が強く戒められた異議です。誤解を生みやすい表現は避けた方がよいと思います。

「仏恩報謝」の「仏恩(仏さまのご恩)」とは 念仏往生の教えを明らかにして頂いたことをさします。「報謝」はその仏恩に報いて「感謝のおもい」から念仏するということです。これは本願寺派の通常の解釈です。

 では、「感謝のおもい」が出てこない人はどうなるのでしょうか。そのおもいが出てくるまでその人は救われないということでしょうか。

 私は、「感謝のおもい」が出てきても出てこなくても、喜べても喜べなくても「念仏すること」が「報恩」だと領解しています。これなら私にもできます。そうでないと、「おもい」が出る人は救われ、出ない人は救われないことになってしまいます。浄土真宗は、念仏する人を区別なく救う教えではなかったでしょうか。


「歴代宗主」とは先代以前を指すと思われま すが、現御門主もいずれそのお一人になられるのですから、「尊いお導き」はご自分を指すことにもなります。しかも、親鸞聖人と歴代宗主が同格に扱われています。さすがにこれはもう少し控えめに書いた方がよいと思います。

 また、我々に念仏を伝えて下さったのは、親・祖父母や先輩念仏者ではなかったでしょうか。法蔵菩薩が『仏説無量寿経』の第十七願で「我が名を称えてくれ。そうでなければ私はさとりをひらかない」と願われた十方無量の諸仏とは、それらの方々が称えられた「南無阿弥陀仏」の念仏(名号)」そのものであると私は頂いています。


⑥~⑧「執われの心を離れ」、「むさぼりいかりに流され」ないのなら、浄土真宗の教えは不要だと思います。そうなれないから浄土真宗がひらかれたのではなかったでしょうか。

 とはいっても、このような努力が無意味とは思いません。「執われの心を離れます」「精一杯つとめます」というのは、「自ずからそうなる」という意味ではなく、「意志」を示していると思われるからです。その通りにはなれないとわかりつつ、浄土真宗の教えから導かれる、いわば、真宗的生活規範として提唱されているのであればあり得ないことはないかもしれません。

 しかし、一歩間違うと浄土真宗が道徳教に陥ってしまう危険性をはらんでいます。浄土真宗は道徳が破綻するところから始まる宗教だと言っても過言ではないと私は思っていますから、この箇所に含まれる問題は、浄土真宗の生命線に関わると言っても言いすぎではありません。

 道徳は不要などとというつもりはありませんが、宗教と道徳の違いは、言語化が不可能な領域を含んでいるかどうかでもあるかと思います。そのことについては「わかりやすさ」の問題とからめて次の節で述べたいと思います。


全体をとおして         

(1)「わかりやすさ」という誘惑

   ご門主が以前に出されたご親教や、今回の「ご消息」発布に際しての前文に「わかりやすさ」と「正しさ」という言葉がたびたび登場します。これらは魅力的な言葉ですが、注意の必要な言葉でもあると思います。まず、「わかりやすさ」ということから考えてみます。

 『阿弥陀経』の中に「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉が出てきます。これは、仏のこの上ないさとりを意味する言葉なのですが、原語のサンスクリット語「アヌッタラ・サッミャック・サンボーディ」の音写語です。敢えて、中国の言葉に訳さなかったのです。後代の学僧が「無上正真道」などの訳語を当てていますが、『阿弥陀経』の漢訳者はそれをしなかったのです。どうしてでしょうか。

 その理由は、仏教の「さとり」という概念が、中国にはなかったために、中国の言葉に訳してしまうと、誤解を受けたり、中国的な理解になってしまうからです。だから、あえて漢訳しなかったのです。

 仏教のわかりにくさの理由の一つはここにあります。これは単に翻訳の問題ではなく、言葉では容易には説明しきれない「さとり」や「真実」が重要な核心部分となっているのが仏教だからです。

 でも、私たちはやはり「わかりたい」し「わかりやすさ」に誘惑されます。それは必ずしも間違ってはいないのですが、「さとり」や「真実」を歪めてしまうことも知っていなければなりません。

「歪めてしまう」といいましたが、先に述べた「道徳化」もそうですが、言語化すること自体が歪めることでもあるのです。その点からすると、今回の『新領解文』はその誘惑の罠にはまってしまった感もないとはいえません。



(2)「正しさ」という落とし穴 

・真実と繋がる言葉と伝道

 「念仏の声を子や孫へ」という本願寺派のスローガンがかつてありました。「諸仏が我が名を称えるようにならなければさとりはひらかない」と誓われた法蔵菩薩の本願と重なって聞こえるのは私だけでしょうか。私は、これまでずっと「なぜ念仏か」ということを悩み続け、聞き続けてきた一僧侶です。ですから、今でも、このスローガンを、寺からの封筒に印刷しています。

我田引水とわかって上でいいますが、仏教の言葉、真宗の言葉は、それだけ人を惹きつける力、真実に繋がる力をもっていると思うのです。 

「念仏」以外にも「本願」「浄土」「他力」「阿弥陀仏」等々。こういう真実に繋がる言葉について、伝道者自身も苦悩格闘しながら、自分の領解を語っていくことが伝道ということではないかと私は考えています。

 今、「新領解文」が「正しい教え」としてご門主の名の下に示され、同調が求められています。そこに伝道者の苦悩も格闘も必要ではなく、むしろ、そのような主観は排除して進めていくことが求められているように感じます。

 本来の伝道とはどうあるべきなのか。考えさせられます。


・「伝える」と「伝わる」

 浄土真宗の教えが「正しく伝わる」ことは大事なことですが、それは、誰かが「正しさ」を決めて、それに従うことを求めることではないと思います。正しさは「伝わる」ものであって、誤解を怖れず言うと、「伝える」ものではない、少なくとも、宗教的な真実とはそういうものだと私は思います。これは先に述べた普遍性の問題と繋がります。伝道者が真実と向き合っているその生身の姿によってこそ「伝わる」のではないでしょうか。

 総局は「伝える伝道から伝わる伝道」を提唱されていますが、拝読・唱和を強く求めることは、「伝える伝道」そのものではないでしょうか。その意識が強くなり過ぎると、「伝える」ことが自己目的化してしまい、その方法や手段だけが関心事となりかねません。そして、それが対立と排除を生む、まさに今そういう状況に陥りかけている気がします。


・正しさの担保

 「新領解文」は、「ご門主のご消息」によって「正しさ」を担保して推し進められているようにみえます。「正しさ」は、どのようにして担保されるべきなのでしょうか。

 そのことに関連して「仏典結集」を思い出しました。仏弟子阿難が記憶していた釈尊の言葉を長老たちの前で語り、仏の教えに相応していると皆が認めれば仏の教えと認定されたのでした。これが「正しさ」を担保する一つの方法です。

 今回の『新領解文』ではこれに匹敵するとは言いませんが、制定過程において十分な議論がなされたのでしょうか。結果的にですが、勧学寮や司教方を始め、これほど多くの方々が疑義を呈しているということは、そういうプロセスを経ていないから起こっているのではないでしょうか。つまり、「正しさ」が正しく担保されていなかったということになります。やはり、ここで一度立ち止まって再考することが必要ではないでしょうか。

 国の政治であれば、権力に対するチェック機能が制度的にも社会の中にも備わっています。マスメディアや世論、SNSを始めインターネットもそのような社会的役割を担っています。ところが、宗教教団の場合は、そういう機能が制度的にも社会的にも弱いように思います。それを思うと、今これだけ異論が噴出していることは、宗門の健全性を示しているともいえますが、同時に、宗門の責任ある方々がそれに応じるかどうかが問われているとも言えます。

 『蓮如上人御一代記聞書』に、上人の次のようなエピソードが載っています。


  順誓申されしと[云々]。常に  はわがまへにてはいはずして、後言いふとて腹立するこ   

 となり。れはさやうには存ぜず候ふ。わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわが

 わろきことを申されよ。聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。

 〈現代語訳〉

   順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいうといって腹を立てる 

 ものがある。だが、私はそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、私のいな

 いところでもよいから、私の悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪

 いところを直したいのである」といわれました。

     『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳)                本願寺


 これは、宗門人に限らず、責任ある立場の者が常に心しておかねばならないことではないでしょうか。

(3)「100%唱和」の危険性
 宗派は『新領解文』の拝読唱和をこれまでにないような決意で推進しているように見えます。それは「次回の宗勢基本調査(2026年予定)において、寺院行事での一〇〇%唱和をめざす」(『宗報』2023.4月号、79頁)という言葉に如実に表れています。しかしながら、「100%唱和」という言葉に潜む危険性に総局はお気づきでしょうか。
 「100%」は、例外を認めないということです。(2)「『正しさ』という落とし穴」で述べたこととも関連しますが、何かを絶対善として、その励行や信順を例外なく求めることは、反対派や少数派の排除、あるいは、人間の個性の否定にすら繋がりかねない、そういう危険性をはらんでいると私は感じています。
 とりわけ、就業上宗務員は上長宗務員(一般の上司)の命に従わねばなりませんから、人権規定が直接的に適用されることはないにしても「内心の自由(思想及び良心の自由)」が犯される事態になりかねません。「信教の自由」に含まれるとされる「信教の告白を強制されない自由」「信仰に反する行為を拒否する自由」にもかかわります。
 これがもし教団内部ではなく、たとえば、公的機関が思想信条に関わる国家理念や道徳を国民に100%の信順を求めたとしたら、人権に関わる大問題になっているでしょう。

結びにかえて
 私たち宗教者は憲法や法律上の人権規定の制約を直接は受けませんが、だからといって無関係というわけでは決してありません。むしろ、それらに代わるより高い宗教的倫理を自ら構築すべきではないかと思います。
  その際重要なことは、信仰はあくまでも個人の自由意志に基づいて行われる行為であり、浄土教は本質的に阿弥陀如来と私との関係において語られるものだということです。教団はそのような個の信仰を守るための存在であることが一義的に重要なのです。

 本願名号を聞信し念仏する人々の  同朋教団  「『浄土真宗本願寺派宗制』前文」

 これが我らの教団です。ここに立脚するとき、『新領解文』の内容、制定・推進方法等は、果たして、これに合致しているでしょうか。
 『新領解文』の原形は、すでに、「念仏者としての生き方」(2016年のご親教)、「私たちのちかい」(2018年ご親教)、「浄土真宗のみ教え」(2021年ご親教)で公表されています。その際、どうして声が上がらなかったのか不思議ですが、それはさておくとしても、これほどまでに種々の意見が湧出してくるということは、制定過程のどこか、あるいは、宗門の組織・機構に不具合があったのかもしれません。

 総局におかれましては、このような状況に鑑みられまして、種々の観点から再検討をして頂くとともに、当面においては、拝読唱和を積極的に推進することを控えて頂きますようお願い申し上げ「私たちの意見」のむすびとします。



















2023年4月20日木曜日

親鸞聖人の「立教開宗」と私たち~二つの立教開宗~

親鸞聖人の「立教開宗」と私たち~二つの立教開宗~

 親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年慶讃法要に向けて、ご門徒向けの寺報「はらから」に思うところをを書きました。それに、標題を付けて私のブログ第1号として投稿することにしました。最後の方で、いわゆる「新領解文」についても私なりの思いを書きました。お読み頂ければ幸いです。                        石川教夫

■御誕生850年

 親鸞聖人は、承安三年(1173)4月1日、京都市伏見区日野でお生まれになりました。現在では新暦に直して5月21日を御誕生の日と定めています。

 西本願寺では、明治七年(1874)ー御誕生から700年ーにその日を降誕会(ごうたんえ)と名づけ、それから毎年5月21日に法要を行っています。また、50年ごとの節目に慶讃法要として大規模な法要を行っています。今年で4回目になりますが、御誕生からすると850年となります。

■「立教開宗」とは

 「立教開宗」というのは、一般的には独自の教えを立てることで(立教)、その教えに基づいて一宗を開くこと(独立)をいいます。ただし、法然聖人や親鸞聖人の場合は、一宗の独立という意味で浄土宗(浄土真宗)をたてられたわけではありません。そのことについては後で詳しく触れます。それはともかく、真宗各派では、元仁元年(1224)を立教開宗の年と定めています。その年から数えて今年は七九九年目となりますので、一年早めて御誕生の法要とともに、800年をお祝いして慶讃法要をお勤めするのです。

 立教開宗慶讃法要が初めて修行されたのは、大正12年(1923)で、元仁元年から数えて700年目のことでした。その後、昭和48(1973)年からは、御誕生と併修(同時修行)されるようになりました。

 ここで重要なことは、「立教開宗」が、明治・大正期の同行によって定められた「立教開宗」であったという点です。聖人自身がその時を以て宣言された「立教開宗」ではありません。「立教開宗」は、そもそも、このような曖昧さをもっているのです。そのことについて、以下もう少し詳しく説明した上で、「立教開宗」について思うところを最後に述べさせて頂くことにします。

 先ずはこの慶讃法要が、明治以降になって新たに始まったその背景から見ていくことにします。


 ■一向宗から真宗へ

 その背景として考えられるのは、明治5年(1872)に「真宗」を公称することが、明治政府によって正式に認められたことです。

 浄土真宗は、それまでは「一向宗」とよばれていました。これは俗称であり、蓮如上人以来「浄土真宗」が宗派の名称であると訴えてきましたが認められませんでした。

 江戸時代に、東西両本願寺は、幕府に一向宗という俗称を廃して、「浄土真宗」を用いることを求めましたが、浄土宗増上寺の反対もあり、結論が出されないまま明治維新を迎えました。

 そして明治5年。明治政府から「真宗」を公称することを認める通達が真宗各派に出されました。それ以後、本願寺派は「真宗本願寺派」という宗名になりました。現在の「浄土真宗本願寺派」という宗名は、戦後の昭和21年からです。


■「立教開宗」はいつ?

 「真宗」と名乗ることができるようになった時、改めて「真宗」の成立はいつか、何をもって成立とするか、つまり、「立教開宗はいつか」が、真宗各派で議論されることになったのでしょう。そして、聖人の主著であり、浄土真宗の教えが体系的に書かれている『教行信証』の成立した時点をもって「立教開宗」とすることとなったのでした。


■立教開宗と『教行信証』の撰述 

 ところが、『教行信証』、正式には『顕浄土真実教行証文類』には、書かれた日付がどこにもないのです。そのため、大正12年の法要に向けて議論され、それまでの通説に従って「元仁元年」(1224)をもって、*撰述の年とされたのでした。それに伴い「立教開宗」も同年と定められました。こうして大正12年(1923)に、立教開宗700年慶讃法要が修行されたのでした。

  ただ、「元仁元年」、聖人52歳の頃に『教行信証』を書き始められたことはたしかだとしても、晩年に至るまで推敲を重ねられましたので、『教行信証』の完成がいつかは、はっきりしていません。その意味では、「元仁元年」を『教行信証』撰述の年とすることには問題も残るのですが、「元仁元年」は、専修念仏者にとって重要な出来事が起こった年でもあり、その年を「立教開宗」の年と定めることには、その経緯はさておき、重い意味があると私は思っています。そのことについては後で述べるとして、次に「元仁元年」がどういう年であったか、考えてみることにします。

*撰述・・『教行信証』は、多くの経典や先師の書物から重要な文章を撰び、ご自身の解釈や主張を加えて構成されています。そのため、「撰述」という言葉が使われます

■「元仁元年」と末法

 まず、「元仁元年」という年号がどこに出てくるのかと言いますと、『教行信証』の「化身土文類」というかなり後半の部分に出てきます。まず、中国の道綽(どうしやく)という方の御文を引用されます。(現代語意訳)                                

  末法の時代になるとどれほど修行しても誰も悟れないだろう。末法の時代は、ただ浄土の教えだけが悟りに至ることができる道なのである。

続いて、ご自分の文章(これを「御自釈」といいます)があり、そこに出てきます。

 釈尊が入滅されたのは、紀元前九四九年とされている。その年から 我が元仁元年まで 2173年だから、明らかに末法の時代である。


「末法」とは、釈尊の教えは残るものの、修行もできず、当然悟りも開けない時代のことです。つまり、「元仁元年」は明らかに末法のさなかであり、浄土の教え以外に救われる道はないという文脈の中に出てくるのです。

 『教行信証』撰述の年をいつとみるかは、真宗史上の重要なテーマではありますが、ここではさておきまして、「元仁元年」を「末法」との関連で登場させた親鸞聖人の意図に焦点を当ててみたいと思います。

 親鸞聖人が「我が」まで付けて注目される「元仁元年」とはどういう年だったのでしょうか。

■専修念仏への弾圧

   「元仁元年」という年は、実は、延暦寺が法然門下の専修念仏者を非難する訴えを朝廷に起こし、それを受けて8月5日に朝廷から専修念仏停止の勅命が出された年なのです。その非難の理由の一つは専修念仏者の末法観でした。末法の時代は、自力の修行をいくら積んでも悟れないとされますから、もし、そうなら浄土の教え以外は存在意義を失ってしまいます。ですから、延暦寺をはじめとする旧仏教の諸派が反対するのは当然といえば当然です。かれらは、末法は末法でも、一万年までは修行もできるし悟りも開けると主張したのでした。

 こうして始まった専修念仏への弾圧は、三年後には「嘉禄の法難」と呼ばれる大弾圧に発展し、法然聖人の墓を暴き遺骨を賀茂川に流さんばかりの事態に至るのでした。

 その時、親鸞聖人52歳。京都から遠い関東の地、常陸国(茨城県)でどのような思いで、その出来事を聞いておられたでしょう。「元仁元年」に、敢えて「我が」まで付けられたのは、専修念仏者を弾圧する朝廷・延暦寺に対する怒りもさることながら、民衆に背を向けて、権力に癒着するどころか、権力そのものになってしまった延暦寺を代表とする南都北嶺の諸寺への嘆きがあったからではないでしょうか。その17年前、法然聖人をはじめご自身も僧籍を剥奪され越後に流罪となった承(じよう)元(げん)の法難(1207)のことも脳裏に浮かんでいたことでしょう。

 聖人が「我が」まで付けて「元仁元年」にこだわられたのは、延暦寺と朝廷の念仏停止の勅命に抗議し、末法の世では、浄土の教えのみが十方衆生(どんな人でも)が救われる道であることを強調されたかったのだと思います。

 その思いはまた、親鸞聖人に『教行信証』を書く動機と目的を一層明確にしたに違いありません。『教行信証』は、己を死の危険にさらすばかりか、念仏弾圧の好材料にされてもやむを得ないほどの書物ですが、それでも書かざるを得なかったのでしょう。

 つまり、元仁元年を「立教開宗」の年と近代の先輩念仏者が定めたのは、「念仏停止」という外部からの圧力に屈せず、「念仏往生」の道を貫く念仏者の生き方を内外に示したということではないでしょうか。

   *専修念仏・・・浄土往生のためにひたすら念仏のみを称えること。法然が提唱。

■もう一つの「立教開宗」

 ただ、注意しなければならないのは、元仁元年が親鸞聖人ご自身の

*回(え)心(しん)、つまり、浄土門へ帰依された時ではないということです。聖人の浄土門への帰依は、二十年以上遡る二十九歳の時でした。それは、『教行信証』の最後の所(後序)に明確に出てきます。


 愚(ぐ)禿(とく)釈の鸞、建仁辛(かのとの)酉の暦、*雑行を棄てて本願に帰す


これは、聖人が法然聖人のもとに100日間通われた結果、自力で悟りを開くことをめざす聖(しよう)道(どう)門(もん)の教えを棄てて浄土門に入られた回心を示す言葉です。「建(けん)仁(にん)辛(かのとの)酉(とり)の暦(れき)」とは建仁元年(1201)です。これは聖人が浄土真宗に帰したということでもありますが、この場合「浄土真宗」を仏教の一派という意味で使われているのではありません。「浄土真宗」というと、宗派の名前だと思っておられる方が多いと思います。現在はその意味もありますが、聖人にとっての「浄土真宗」は宗派名ではなく、教えそのものをさしていて、「念仏して浄土に往生することを根本(宗)とする」という意味で使われているのです。つまり、聖人にとっては浄土真宗はそのまま仏教そのものということなのです。そして、そのことが明確になったのが「建(けん)仁(にん)辛(かのとの)酉(とり)の暦(れき)」だったのです。とすると、この年を以て「立教開宗」の時とすることもまた妥当なのではないでしょうか。

 「立教開宗」を考えるとき、私たちは先に述べた元仁元年と建仁元年の両方を意識して考えねばならないと思います。では、そのような二重の意味をもつ「立教開宗」について私の思いを最後に述べることにします。

 *回(え)心(しん) 一般的には宗教的な意味での大きな心の転換。浄土教では、自力      の仏道から浄土門へ入ると大きな心の転換をさす。

  *雑(ぞう)行(ぎよう) 自力の要素が残っている修行

■建仁元年の立教開宗~浄土真宗と言葉と私

 まず、二つの立教開宗を区別するために、ここでは、それぞれ「元仁元年の立教開宗」「建仁元年の立教開宗」とすることにします。

 さて、「建仁元年の立教開宗」は「念仏して浄土に往生することを宗とする」という親鸞聖人の浄土門への帰依の宣言でした。ここで考えたいのは、そのこと自体ではなく浄土教で出てくるたくさんの抽象的な言葉の問題です。「南無阿弥陀仏「本願」「念仏」「浄土」「信心」どれ一つとってもそうです。この言葉の意味を知ろうと辞書を読んだり話を聞いてもすっきりしません。それらは、そもそも言葉では語り得ない真実に近づくための道しるべのようなものだからです。逆に言うと、これらの言葉は非常に深く広い意味を含んでいるということでもあります。この「言葉と真実」という問題は仏教の中でずっと重視されてきました。さらに、その通りにならない「自己」を加えて三つ巴の葛藤の中で求め続け悩み続けてきたのが念仏者の偽らざる姿ではないでしょうか。「なぜ念仏なのか」「信心をいただくとは」等々と。

 それは『歎異抄』(第九条)の聖人と唯円の会話にも示されています。


 念仏申し候らえども、勇躍歓喜のこころおろそかに候ふこと(それほどわいてきません)、また、 急ぎ浄土へまいりたきこころの候はぬは・・・


と親鸞聖人に問いかける唯円の言葉が、それを示しています。

 私が言いたいことは、この「葛藤」は、念仏者にとって必要な葛藤ではないかということです。答とおぼしき説明を覚え込んで自由に使えることが信仰の証でも何でもない。そうではなくて生涯問い続け、葛藤し続けていいし、そうならざるをえないのが念仏者ではないかと私は思います。それでも、なぜ、歩み続けることができるのか。聖人は続いてこう答えられます。


 よろこぶべきこころをおさえて、よろこばざるは煩悩の所為なり。 しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたるこ となれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとし られて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。


 〈現代語訳〉

  喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。 そうした私どもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられ て、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているの です。本願というのはそういう私どものためにおこされたのか、と 気づかされ、ますます頼もしく思われるのです。


 こういう言葉を聞くとほんとに安堵します。「葛藤しててもよいのだ」

と。それが煩悩具足ということだったのかと知れるのです。


元仁元年の立教開宗

 次に、明治大正期の先輩念仏者が定めた「元仁元年の立教開宗」には、「念仏停止」という外部からの圧力に屈しない決意が込められていると先に述べました。その前提として、近世以前において武家・朝廷の権門勢家におもねり、自らもその一端を担ってきたこと、それによって教えすらが歪めてきたこと、こういうことへの猛省もそこには含まれていたはずです。少なくとも私はそう思いたい。

 政治権力を代表とする外部の圧力とどう関わっていくかは、浄土真宗において真俗二諦の問題として昔からあった問題です。これは現代においても看過できないテーマですが、ここでは、目線を変えて社会の同調圧力について、「同調する側」の問題を考えておこうと思います。

 それはコロナ感染拡大の中で感じたことなのですが、「安全」「健康」という社会的に善とされる価値観に従って法要・聴聞の場を自ら制限しました。つまり、自ら「念仏停止」をしたということです。これは同調圧力に従ったのか、安全・健康を重視した主体的判断だったのか、果たしてどっちだったのでしょうか。宗派によっては、ウィルス撲滅のための法要や祈祷まで行われたと聞きます。我が宗派はもちろんそれはしていませんが、「(飢饉や悪疫で多くが亡くなったこと)は悲しいことだが、それは無常の道理である」(親鸞聖人御消息十六通)と述べられた親鸞聖人のように言い切れない私、無難な方を選んでいた私がいました。

 これは、自己防衛的な心理が働く、内なる同調圧力といえるかもしれません。「念仏停止」の圧力は外からとは限らないのです。ある意味では外部からの圧力よりも難敵といえるでしょう。よくよく考えたいものです。

 最後にもう一点述べます。今回の慶讃法要を機に、宗門では新しい領解文を作成し、全門徒が拝読・唱和することを提唱しています。ここではその内容には立ち入りませんが、「正しい」教えがご門主の名の下に示され、同調が求められています。浄土真宗の教えが「正しく伝わる」ことは大事なことですが、それは、誰かが「正しさ」を決めて、それに従うことを求めることではないと思います。正しさは「伝わる」ものであって、誤解を怖れず言うと、「伝える」ものではない、少なくとも、宗教的な真実とはそういうものだと私は思います。「伝える」意識が強くなり過ぎると、「伝える」ことが自己目的化してしまい、その方法や手段だけが関心事となりかねません。そして、その「正しさ」が対立と排除を生む、そういう危機感を今感じています。

 このことに関連して「仏典結集」を思い出しました。仏弟子阿難が記憶していた釈尊の言葉を長老たちの前で語り、仏の教えに相応していると皆が認めれば仏の教えと認定されたのでした。今回の「新領解文」は、これに匹敵するとまでは言いませんが、制定過程において十分なぎろんがつくされたのでしょうか。結果的にですが、勧学寮や司教方を始め、これほど多くの人が疑義を呈しているということは、そういうプロセスを経ていないから起こっているのではないでしょうか。そうだとすると、やはり、ここで一度立ち止まって再考することが必要ではないかと思います。

 国の政治であれば、権力に対するチェック機能が制度的にも社会の中にも備わっています。マスメディアや世論、SNSを始めインターネットもそのような社会的役割を担っています。ところが、宗教教団の場合は、そういう機能が制度的にも社会的にも弱いように思います。それを思うと、今これだけ異論が噴出していることは、宗門の健全性を示しているともいえますが、同時に、宗門の責任ある方々がそれに応じるかどうかが問われているとも言えます。ぜひ、宗門挙げて考えてみようではありませんか。

 最後に、蓮如上人の『御一代記聞書』から引用して終わろうと思います。


  順誓申されしと[云々]。常にはわがまへにてはいはずして、後言    いふとて腹立することなり。われはさやうには存ぜず候ふ。わがま   へにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ。  聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。

 

 〈口語訳〉

  順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいう といって腹を立てるものがある。だが、私はそうは思わない。面と 向かっていいにくいのであれば、私のいないところでもよいから、 私の悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪い ところを直したいのである」といわれました。

                      『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳)本願寺、より

 

                                       2023年4月20日 

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