新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての私たちの意見(改訂版)
浄土真宗本願寺派 永順寺住職 石川教夫
この文書は昨年6月1日付で住職の私と総代5名の連名で総局に送付したものを大幅に改訂したものです。実際には、送付した文書は総局に届いていませんでした。そのことは、本年1月17日に開催された滋賀教区での「新『領解文』学習会」での質問で判明しました。簡易書留で郵送しましたので、届いていることは間違いありません。内部で事務的に処理(廃棄?)されたようです。一般寺院からの文書は、このように扱われているということがわかりました。総代共々、非常に遺憾に感じております。はじめに
まず、「領解(りょうげ)」という言葉に触れておきます。「領解」とは、「教え」についての「自分の受け止め」であり「教え」そのものではないというのが一般的な理解です。ところが、標題下に「(浄土真宗のみ教え)」と書かれているので、「これは領解ではあるが『教え(教義)』でもある」ということなのでしょう。いったい、個人的な受け止めである「領解」と「教え」の関係はどう捉えればよいのでしょうか。
ひるがえって、今、私たちが頂いている浄土真宗の教えも、元を辿れば親鸞聖人による仏教の「受け止め=領解」ではなかったでしょうか。このことの意味するところは、その「領解」が普遍的(時代や社会を越えてあてはまること)であるかどうかではないでしょうか。普遍的であれば自ずから受け継がれていくのでしょう。
しかしながら、普遍性の有無を我々が判断することはできません。特定の見解や思想が普遍的であるかどうかは、おそらく、自由な批判・検証にさらされることによって自然に決まっていくのだと思います。これは歴史が証明しています。もしそうなら、未だ普遍性を獲得していない「領解」を、普遍的である「教え」と同等視することになってしまいます。
それだけではありません。その発布形式が「消息(しょうそく)」であったということにも課題が残ります。なぜなら、2007年の臨時宗会において「宗制」が改正され「消息」が「聖教に準ずる」から削除された理由と矛盾するからです。その理由とは、直接的には宗門が戦時体制に協力したことへの反省からでしたが、それを敷衍して考えると、「消息」がその時代の政治や社会や価値観に左右されるということであり、だから、「聖教に準ずる」から外されたと考えるべきであり、そのことこそ反省の核心だったはずです。その点からしても『新領解文』を括弧付きであっても、いきなり「み教え」として発布した判断は、やはり、再検討しなければならないのではないでしょうか。
以下、本文の内容に関してまず思うところを述べ、次いで、全体を通して感じるところを述べさせて頂くことにします。
新しい領解文 (浄土真宗のみ教え)
*以下「新領解文」
*○数字は、説明用に石川が付記
《第一段 南無阿弥陀仏の心》
南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の
弥陀のよび声
①私の煩悩と仏のさとりは
本来一つゆえ
②「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身(み)をまかす ③このままで
救い取とられる 自然の浄土
④仏恩報謝の お念仏
《第二段 師徳を讃える》
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された ⑤歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
《第三段 念仏者の生活》
み教えを依りどころに生きる者 となり
⑥少しずつ 執われの心を 離れます
⑦生かされていることに 感謝して
⑧むさぼり いかりに 流されず
⑨穏やかな顔と 優しい言葉
⑩喜びも 悲しみも 分かち合い
⑪日々に 精一杯 つとめます
1 文言に沿って
《第一段 南無阿弥陀仏の心》
①「わたしの煩悩と仏の悟りが本来一つ」
これは、勧学寮の『解説』によると「(阿弥陀如来の)智慧の眼で眺めた時」と書かれていますが、仏の智慧を凡夫がこんな簡単に語ってしまってよいのかと思ってしまいますが、それはさておき、我々には難しくてよく分からないところです。ただ、ここは前行を受けて阿弥陀如来による衆生救済の原理を述べているところだと思います。そうすると、阿弥陀如来が一人も残さず必ず救うと誓願をおこされたのは、我々が煩悩具足の凡夫だからではなかったでしょうか。その一点において、ここは大きな疑問です。
また、「わたしの煩悩と・・・」と、「私の」が付けられ、それが「仏のさとりと本来一つ」といわれると、教えを求める歩みが止まってしまう気がします。あるいは、「私はすでにさとっている」といった傲慢を生むかもしれません。つまり、ここの記述は「み教え」と「領解」が混在してしまっているのではないでしょうか。
②「そのまま救う」
「そのまま」とは、「煩悩を断たなくてもよい」ということではなく、私たちが煩悩を断とうにも断てない「煩悩具足」の存在であるからこそ「救われる」対象なのだという、阿弥陀如来による逆説的な救いの原理を意味する言葉だと思います。「煩悩具足」と「救い」は不即不離ではあるけれども、「阿弥陀如来→私」という方向性をもった救いを意味しているのが「そのまま」という言葉ではないでしょうか。
ところで、「煩悩具足」という言葉はポピュラーになりすぎて、身近な煩悩の例話を聞くと「確かに自分にもある」とわかった気がします。しかし一方で、最近の重大事件の報道を見ていても思うのですが、煩悩の根はもっと深く、私たちにはその深さすらわからないのではないかと思います。「わがこころのよくてころさぬにはあらず」(『歎異鈔』)とはそういうことをいわれている気がします。つまり、「煩悩具足」は私たちの認識を越えた深い闇をも含んでいて、「そのまま」はその領域までも含めた言葉なのでしょう。
③「このままで」
「そのまま」が、右のような意味だとすると、それを「このままで」と置き換えることはできないと思います。なぜなら、「このままで」は、自分は救われる存在であると自認している言葉だからです。「救い」は阿弥陀如来の領分ではなかったでしょうか。
「このまま」は、「阿弥陀如来→私」ではなく、「私→私」という自己肯定の図式になっているのではないでしょうか。
この点に関しては、即如前門様もその著書『愚の力』の中で次のように注意を促されておられます。
少し考えれば分かることですが、阿弥陀如来が救うといわれるのは、私がこのままではいけないから救って下さるのです。私の側が、「このままでいいのですよ」との姿勢であったならば、救いも何もいりません。 同著156頁
別の視点からもう一言加えると、私たちは自分に都合よく解釈をしますから、「『このまま』でよいのなら何をしても救われるのだ」と(「造悪無碍」)という誤った理解に陥りかねません。これは法然・親鸞が強く戒められた異議です。誤解を生みやすい表現は避けた方がよいと思います。
④「仏恩報謝のお念仏」
「仏恩(仏さまのご恩)」とは 念仏往生の教えを明らかにして頂いたことをさします。「報謝」はその仏恩に報いて「感謝のおもい」から念仏するということです。これが本願寺派の通常の解釈です。
では、「感謝のおもい」が出てこない人はどうなるのでしょうか。そのおもいが出てくるまでその人は救われないということでしょうか。
私は、「感謝のおもい」が出てきても出てこなくても、喜べても喜べなくても「念仏すること」が「報恩」だと領解しています。これなら私にもできます。そうでないと、「おもい」が出る人は救われ、出ない人は救われないことになってしまいます。救いは「おもい」ごときには左右されないはずです。浄土真宗は、念仏する人を区別なく救う教えではなかったでしょうか。
《第二段 師徳を讃える》
⑤「歴代宗主の尊いお導きによるものです」
先代以前を指すと思われますが、当門様もいずれそのお一人になられるのですから、ご自身を指すことにもなります。しかも、親鸞聖人と歴代宗主が同格に扱われています。さすがにこれはもう少し控えめに書いた方がよいと思います。
また、我々に「念仏」を伝えて下さったのは、親・祖父母や先輩念仏者ではなかったでしょうか。その「念仏」は、法蔵菩薩が『仏説無量寿経』の第十七願で「我が名を称えてくれ。そうでなければ私はさとりをひらかない」と願われ、それに応えた十方無量の諸仏が称えられた
「念仏」であると私は頂いています。「念仏」は「念仏」であり、「念仏」の主語を問う必要はないと思うのですが。
《第三段 念仏者の生活》
生きずらさを感じている人にとってこの段はどう受けとめられるのでしょう。そのことを念頭に考えてみることにします。
⑥「少しずつ 執われの心を 離れます」
⑧「むさぼり いかりに流されず」
そうなら、浄土真宗の教えは不要ではありませんか。そうなれないから浄土真宗がひらかれたのではなかったでしょうか。まず、勧学寮の解説をみてみます。
そのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活できるという意味です。『新しい領解文(浄土真宗のみ教え)ご消息と解説』29頁
とされています。しかし、結びには
⑪「日々に精一杯つとめます」
と書かれていますから、この段を素直に読むと、信後の念仏生活を示しているというよりも、宗教的な生活規範が示されていると読めるのではないでしょうか。とはいっても、そのような生活規範が不要であるというわけではありません。
現に、1958年の「大谷本廟親鸞聖人七百回大遠忌法要」に際して勝如前々御門主がご消息で「浄土真宗の生活信条」を発布され、現在も日常勤行集等に掲載されていることは周知のことです。ただ、「み教え」としてではなく、「生活信条」と明記されている点が全く異なります。
問題は、「(浄土真宗のみ教え)」と押さえられる『新領解文』に、生活規範が「み教え」として位置づけられている点にあります。生活規範は「み教え」そのものではないはずです。浄土真宗を道徳化してはならないと思います。
宗教的な生活規範は、確かに人間の内面から生き方の変革を迫ります。貪り・いかりに流されるな、執われの心を離れよと要請します。しかし、その要請に応えられない絶望的な自己を発見してしまったのが浄土教ではなかったのでしょうか。
人間精神のこの領域を問題にするには、どうしても「浄土」、「本願」等々の象徴的詩的言語を用いざるを得ません。仏教は言語化が不可能な領域を含んでいるからです。ところが「生活規範=教え」という図式は、仏教からその核心部分を欠落させてしまう危うさをもっているのです。この点も問題ではないでしょうか。
先に、生活規範の要請に応えられない自己の発見というところに浄土教が説かれなければならない必然性があったと述べました。この点に関して、もう少しだけここで補足しておきます。 これは、言い換えると二種深信の問題だということです。つまり、「新しい領解文」には浄土真宗の宗意安心の要である二種深信の視点が抜け落ちているのではないかということです。これは、浄土真宗の生命線に関わると言っても言いすぎではありません。
当門様は『念仏者の生き方』の中で、
どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ちきれない煩悩の深さを自覚され、ついに
比叡山を下り、法然聖人のお導きによって阿弥陀如来の救いのはたらきに出遇われました。
と二種深信を踏まえて述べておられます。この文脈がなぜ『新領解文』に反映されなかったのか不思議に思います。
⑦「生かされていることに感謝して」
⑨「穏やかな顔と 優しい言葉」
生かされていることに感謝できて、穏やかな顔でいられたらどんなにいいだろうと、誰しもが思っていることでしょう。でも、そうなれない人も少なくないのではないでしょうか。
ここには道徳的響きが感じられます。
全国の小中高校の不登校児童生徒数は35万人を超え、いじめの認知件数は68万件、自殺した児童生徒は400人を超えています。(令和4年度文部科学省による調査結果)他にも自傷行為(自死・自殺念慮を含む)を繰り返す子どもたちもいます。彼・彼女たちの中には、生きていることがつらい、自分はだめな人間、自分が変わらないといけないと、今の自分を受け容れられない人が少なくないと思います。その彼・彼女にとって、この言葉はどう響くでしょう。
教えに出遇えば「生かされていることに感謝」できるようになっていけるという意味合いで書かれているのかもしれませんが、今そのように思えない者にとって、この言葉は心の前を素通りするばかりか、そのとおりになれない自分を責める道具にもなりかねないことを知っておかねばなりません。
『宗報』(23.10)掲載の「現代社会と『生きづらさ』」という連載に、自死・自殺の問題に取り組んでいる広島のNPO・Sottoの取り組みが紹介されていますが、その一節に次のような文があります。
・・・お互いが笑い合っているのが理想です。でも笑えない人もいます。そうした人が素直に安
心して、「死にたい」といえる居場所がある、そこで、丁寧に聞いてくれる人がいる、否定
せずに受けとめる人がいる、こうした安心できる場所を作っていこうと活動しています。
宗派としても、こういう方向性をもっているのなら、『新領解文』の「念仏者の生活」は、それと矛盾すると思います。
自他共に心豊かなに生きることのできる社会の実現に貢献するものである。 (『浄土真宗本願寺派宗制』)
これがわが宗門の目指すところなのですから、なおさらではないでしょうか。
《念仏者の生活》の段は、述べてきたように道徳的な生活規範という要素の強さという側面からも、二種深信という教義の側面からも、再度検討することが望ましいように思います。
2.全体をとおして
(1)「わかりやすさ」という誘惑
当門様が以前に出されたご親教や、今回の「ご消息」発布に際しての前文に「わかりやすさ」と「正しさ」という言葉がたびたび登場します。これらは魅力的な言葉ですが、注意の必要な言葉でもあると思います。まず、「わかりやすさ」ということから考えてみます。
『阿弥陀経』の中に「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」という言葉が出てきます。これは、仏のこの上ないさとりを意味する言葉なのですが、原語のサンスクリット語「アヌッタラ・サッミャック・サンボーディ」の音写語です。敢えて、中国の言葉に訳さなかったのです。後代の学僧が「無上正真道」などの訳語を当てていますが、『阿弥陀経』の漢訳者はそれをしなかったのです。どうしてでしょうか。
その理由は、仏教の「さとり」という概念が、中国にはなかったために、中国の言葉に訳してしまうと、誤解を受けたり、中国的な理解になってしまうからです。だから、あえて漢訳しなかったのです。
仏教のわかりにくさの理由の一つはここにあります。これは単に翻訳の問題ではなく、言葉では容易には説明しきれない「さとり」や「真実」が重要な核心部分となっているのが仏教だからです。
でも、私たちはやはり「わかりたい」し「わかりやすさ」に誘惑されます。それは必ずしも間違ってはいないのですが、「さとり」や「真実」を歪めてしまうことも知っていなければなりません。
「歪めてしまう」といいましたが、先に述べた「道徳化」もそうですが、言語化すること自体が歪めることでもあるのです。その点からすると、今回の『新領解文』はその誘惑の罠にはまってしまった感もないとはいえません。
(2)「正しさ」という落とし穴
真実と繋がる言葉と伝道
「念仏の声を子や孫へ」という本願寺派のスローガンがかつてありました。「諸仏が我が名を称えるようにならなければさとりはひらかない」と誓われた法蔵菩薩の本願と重なって聞こえるのは私だけでしょうか。私は、これまでずっと「なぜ念仏か」ということを悩み続け、聞き続けてきた一僧侶です。ですから、今でも、このスローガンを、寺からの封筒に印刷しています。
我田引水とわかった上でいいますが、仏教の言葉、真宗の言葉は、それだけで人を惹きつける力、真実に繋がる力をもっていると思うのです。「本願」「浄土」「他力」「阿弥陀仏」等々、こういう真実に繋がる言葉について、伝道者自身も苦悩格闘しながら、自分の領解を語っていくことが伝道ということではないかと私は考えています。
今、『新領解文』が「正しい教え」としてご門主の名の下に示され、同調が求められています。そこに伝道者の苦悩も格闘も必要ではなく、むしろ、そのような主観は排除して進めていくことが求められているように感じます。
本来の伝道とはどうあるべきなのか。考えさせられます。
「伝える」と「伝わる」
浄土真宗の教えが「正しく伝わる」ことは大事なことですが、それは、誰かが「正しさ」を決めて、それに従うことを求めて実現されるものではありません。「はじめに」で述べたように普遍的な要素が内在している教えは、自ずと伝わっていくものであり、伝え方や熱意に一義的に依存するものではありません。誤解を怖れずに言うと、正しい教えは、伝わるものであって伝えるものではないと思います。
総局は「伝える伝道から伝わる伝道」という方針を提唱されていますが、一〇〇%唱和を求めるという、例外を認めない完全主義的な目標設定は、その方針に逆行する結果となるのではないでしょうか。そればかりか、それが摩擦や反発、対立や排除を生む、まさに今そういう状況に陥りかけている気がします。このことについては後にもう一度触れることとします。
正しさの担保
『新領解文』は、「ご門主のご消息」によって「正しさ」を担保して推し進められているようにみえます。「正しさ」は、どのようにして担保されるべきなのでしょうか。
そのことに関連して「仏典結集」を思い出しました。仏弟子阿難が記憶していた釈尊の言葉を長老たちの前で語り、仏の教えに相応していると皆が認めれば仏の教えと認定されたのでした。これが「正しさ」を担保する一つの方法です。
今回の『新領解文』ではこれに匹敵するとは言いませんが、制定過程において十分な議論がなされたのでしょうか。結果的にですが、勧学や司教の方々を始め、これほど多くの人が疑義を呈しているということは、そういうプロセスを経ていないから起こっているのではないでしょうか。つまり、「正しさ」が正しく担保されていなかったということになります。やはり、ここで一度立ち止まって再考することが必要ではないでしょうか。
国の政治であれば、権力に対するチェック機能が制度的にも社会の中にも備わっています。マスメディアや世論、SNSを始めインターネットもそのような社会的役割を担っています。ところが、宗教教団の場合は、そういう機能が制度的にも社会的にも弱いように思います。それを思うと、今これだけ異論が噴出していることは、宗門の健全性を示しているともいえますが、同時に、宗門の責任ある方々がそれに応じるかどうかが問われているとも言えます。
『蓮如上人御一代記聞書』に、上人の次のようなエピソードが載っています。
順誓申されしと[云々]。常にはわがまへに てはいはずして、後言いふとて腹立することなり。われはさやうには存ぜず候ふ。わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ。 聞きて心中をなほすべきよし申され候ふ。
〈口語訳〉
順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいうといって腹を立てるものがある。だが、私はそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、私のいないところでもよいから、私の悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである」といわれました。
『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳) 本願寺出版社
これは、宗門人に限らず、責任ある立場の者が常に心しておかねばならないことではないでしょうか。
(3)「100%唱和」の危険性
宗派は『新領解文』の拝読・唱和をこれまでにないような決意で推進しようとされています。それは「次回の宗勢基本調査(2026年予定)において、寺院行事での100%唱和をめざす」と、宗会と常務委員会という宗派の最高議決機関において、提案されていることから明らかです。(『宗報』2023.4月号、79頁)しかしながら、「100%唱和」という推進対策に潜む危険性に総局はお気づきでしょうか。
・「100%」の問題
「100%」は、例外を認めないということです。(2)「『正しさ』という落とし穴」で述べたこととも関連しますが、何かを絶対善として完全主義的に目標の達成を求めることは、ピラミッド型の構造をもつ集団の場合、過剰な従順や忠誠、あるいは、強制を生む可能性があります。
この文脈で戦前を思い起こすのは私だけでしょうか。そのような特質をもつ官僚体制、民間の諸組織が挙って日本を侵略戦争へと導いていったのではなかったでしょうか。我々の教団も例外ではなく、むしろ、積極的に戦争に加担しました。その役割の一つを「消息」が担ったことは歴史の事実です。
この反省から、2007年の臨時宗会において「宗制」が改正され「消息」が「聖教に準ずる」から削除されたことは記憶に新しいところです。これはすでに「はじめに」で述べたところですが、このことから我々が学ぶべきは、「消息」といえども、時代の制約を免れ得ないということです。だから、それを「み教え」として普遍の側に位置づけることに、大きな疑問が残るのです。自らの価値観が歴史的制約から自由ではないことを承知しておかねばなりません。
このような反省に立てていれば、「100%」という文言が最高議決機関に提案され議決されることはなかったでしょうし、そもそも、「消息」という形で発布されることはなかったのではないでしょうか。これは教団における民主主義の成熟度が問われる課題でもあります。
・「唱和」は信仰告白でもある
「唱和」は、人前での信仰告白という要素を持っています。信教の自由の観点からすると、これは、本人の意志に基づいて行われる場合はともかく、他者から強要されるならば「内心の自由(思想及び良心の自由)」が犯される事態になりかねません。「信教の自由」に含まれる「信教の告白を強制されない自由」「信仰に反する行為を拒否する自由」にかかわります。
これがもし教団内部ではなく、たとえば、公的機関が思想信条に関わる国家理念や道徳を国民に100%の信順を求めたとしたら、人権に関わる大問題になるでしょう。
僧侶や一般の門徒方もそうですが、とりわけ、就業上宗務員は上長宗務員(一般の上司)の命に従わねばなりませんから、人権規定に抵触するのではないでしょうか。
とはいえ、公的機関ではない教団が憲法や法律上の人権規定の適用を直接受けることはありません。憲法の私人間効力説を適用すべきだというのでもありません。そうではなく、宗教教団であるが故に、憲法の規定を超える人権思想と高い宗教的倫理をこそ自ら構築すべきではないかと思うのです。そういう教団の体質変革こそ、年齢を超えた世代に浄土真宗が受け止められる制度的な機縁となるのではないでしょうか。
結びにかえて
『新領解文』の原形は、すでに、「念仏者としての生き方」(2016年のご親教)、「私たちのちかい」(2018年ご親教)、「浄土真宗のみ教え」(2021年ご親教)で公表されています。その際、どうして声が上がらなかったのか不思議です。『新領解文』の制定過程についても不明瞭な面があると指摘されています。
また、これほどまでに種々の意見が湧出してくるということ自体、制定過程のどこか、あるいは、宗門の組織・機構に不具合があったのかもしれません。この際、宗門機構の点検も必要なのではないでしょうか。
その際、「身近な非民主主義」に対して誰でも異議を申し立てることができることが宗門の民主化に繋がると思います。「身近な非民主主義」というのは、どういうことかというと、たとえば、多数決を取らない、力のある人の意見が通る、ハラスメント、上長宗務員への忖度や過剰な同調・忠誠などを指します。他にも「何かおかしい」ということがあると思います。そういう時「声を上げる」ことができる組織であってほしいと思います。
最後に、信仰はあくまでも個人の自由意志に基づいて行われる行為であり、浄土教は本質的に阿弥陀如来と私との関係において語られるものだと思います。教団はそのような個の信仰を守るための存在であることが一義的に重要なのではないでしょうか。
本願名号を聞信し念仏する人々の同朋教団
「『浄土真宗本願寺派宗制』前文」
これが我らの教団です。この一点を核として私たちは御同行として教団を作っているのです。
それを別の角度からみると、個々の念仏者は、浄土真宗との出遇い方や、言語表現においては差異があり得るということでもあります。それでも、「本願名号を聞信し念仏」するという一点において教団の元に参集していると考えるべきではないかと思います。ですから、教団という組織は、その差異を包摂する寛容さと度量をこそ具えねばならないのであって、その逆ではないはずです。
「100%」はその点においても問題なのです。 このことは、仏教が、言葉では容易には説明しきれない「さとり」や「真実」を重要な核心部分としている宗教であることと別ではありません。それが仏教の時代や社会を超えた普遍性を担保しているからです。
以上の観点に立脚するとき、『新領解文』の形式(「消息」として発布)、内容、制定・推進方法等について見直した方がよいと私たちは思います。
総局におかれましては、2024年度の宗務基本方針において唱和推進を掲げないと聞き及んでいます。(『中外日報』2024.2.7)是非その方向で進めて頂くことをお願いするとともに、印刷物・出版物に『新領解文』を掲載することを早急に停止して頂き、形式・内容に関しましても、ここで述べてきました理由からご検討をお願い致しまして「私たちの意見」の結びとします。